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大悟は、仏祖の境涯をも超えて跳び出しているありさまである 『第十大悟』10-1-3

〔『正法眼蔵』私訳〕

大悟より仏祖かならず恁麼インモ現成する参学を究竟クキョウすといえども、


大悟の渾悟コンゴを仏祖とせるにはあらず、


仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。


仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。



〔抄私訳〕

「大悟より仏祖かならず恁麼現成する参学を究竟すといえども、大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり」。


「大悟より仏祖」が「現成する」ことは勿論である。しかし、「大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり」とは、ただ「大悟」は「大悟」、「仏祖」は「仏祖」であるということである。


必ずしも、「大悟より仏祖」は「現成す」と、引き伸ばして言わないでいいという義である。これはすなわち、「一方(大悟)を証すれば、一方(仏祖)はくらし」の義である。


「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」。


「仏祖」が「大悟」であることは、言うまでもないことであるが、

「仏祖は大悟」であるということをしばらく言わずに、「仏祖」は「仏祖」、「大悟」は「大悟」にしておこうという一往の義である。


『仏性』の巻の時も、「衆生は衆生」、「仏性は仏性」、と言った意である。


〔聞書私訳〕

/「大悟より仏祖かならず恁麼現成する参学を究竟すといえども、大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり」とは、この「究竟」という意味合いは、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」ということである。


必ず「悟」を用いるというのではない、「失悟放行」と言うからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

大悟より仏祖が必ずこのように現われる参禅学道(禅に参じ道を学ぶこと)を究めつくすといっても、大悟の全体を仏祖としたのではなく(大悟と言うときは、仏祖を言わず大悟きりであり)、仏祖の全体を大悟の全体であると言うのではない(仏祖と言うときは大悟を言わず、仏祖きりである)

(大悟より仏祖かならず恁麼現成する参学を究竟すといえども、

大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。)

〔「一方(大悟或いは仏祖)を証するときは、一方(仏祖或いは大悟)はくらし」である。〕


仏祖は、大悟の辺際を跳び出しており、

大悟は、仏祖の境涯をも超えて跳び出しているありさまなのである。

(仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。)



                           合掌


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