〔抄私訳〕
「仏々の大道、つたはれて綿密なり。祖々の功業クゴウあらわれて平展なり」とある。
「仏々の大道」とは、仏は行ずるもので行じられる行が別にあるように思われるが、今は「仏々」をそのまま「大道」と言うのであり、行ずることと行じられるものは別ではないのである。
〔聞書私訳〕
/「仏々の大道、つたはれて」と言う、
「仏々」と重ねたからといっても、毘婆尸仏ビバシブツから尸棄仏シキブツへと相伝することを示そうとするわけではない。ただ、毘婆尸仏の法道は毘婆尸仏の法道の通り、尸棄仏の法道は尸棄仏の法道の通りであると言うように、「仏々」と列ツラなり、どの仏も差別がないところを「仏々」と言うのである。
辺際がある存在は「大道」の言葉が無意味であるから、「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行」(大悟が現成し、悟にもとらわれず仏道に至り、悟を省み悟を自由に使いぬき、悟を忘れ大道にかなって自由自在に生活する)と言うのである。
/「綿密」とは、絶えるところなく伝わることが厳しいことをいうのであり、「密」は隠す義ではなく、厳しいことである。
/「祖々の功業」と言う、これも上の意である。「功業」(功徳ある行い)によってどんな賞を待つと言わないから、「平展」(平らに展べる:平生底:当たり前のこと)と説くのである。
『大明録』(儒仏道三教一致の思想を説いている)では、悟のありようを種々に並べて勝劣を判定するが、そうあってはならないことである。
/雲門の三句というものを談ずるにおいては、いわゆる「随波逐浪ズイハチクロウ」(弟子の個性に合わせて、闊達で無礙な指導を行う)「函蓋乾坤カンガイケンコン」(箱と蓋がぴったり合うように、弟子の機根にあった指導を行う)「截断衆流セツダンシュリュウ」(有無を言わさず、弟子の煩悩を断ち切る)の三つである。
これを教(天台教学)で言うと、「随波逐浪」は「和光同塵」(仏・菩薩が衆生を救うため、自分の本来の知徳の光を隠し、けがれた俗世に身を現す)と言い、「函蓋乾坤」は「境智冥合ミョウゴウ」(客観世界と主観世界が融合した一体の境界)と言い、「截断衆流」は法身の理であり、「青黃赤白に非ず」(我々の眼で見る青黃赤白などの色ではない)とか「長短方円に非ず」(我々の眼で見る長短方円などの形ではない)とか言うのである。
近頃の、禅宗などと称する輩も、また言語に関わらず、無分別である所が禅であるから、「截断衆流」と言うのであると理解しているが、そうではない。
一つには、三界(あらゆる世界)を唯一心(ただその時の様子だけである)と説き、二つには、一心(その時の様子)を唯三界(ただあらゆる世界である)と説き、三つには、三界を唯三界と説くのが、雲門の三句であると、宗門では理解する。
だから、一句は三句であり、千句も一句も三句であるから、三句は三句ではないのであり、高下大小なく平らに展べている(平生底)というのである。たとえば「綿密」の言葉と同じく、尽界と使うほどの言葉である。
「仏々」というより「平展なり」というまでは、総表(大意を述べる)の言葉であり、「仏々」というのが、そのまま「大道綿密」の意味にも当たるのである。
/「仏々の大道」というより「平展なり」というまでを一段、「このゆゑに」というより「家常なり」というまでを一段、「挙拈する」というより「弄精魂」というまでを一段、以上三段と見分けるべきである。
/六境(色・声・香・味・触・法)の説法がある。いわゆる六根(六つの感覚器官)によるものである。その中で、人間世界では耳根(聴覚)が鋭利である。ただ、根(感覚器官)境(環境世界)相対の時があっても、一仏乗(ただ一つの真の教え)の時は根・境が相い対することはないのである。
今の「仏々」相伝の「大道」は六根はみな同じである。しかし、六根の差別が無いと言っても、声塵(音声)説法がある。耳根が鋭利であるからである。
ただまた、理の通りに言うときは、六塵に関わらずみな同じで、「平展」(平生底)のときは、根(感覚器官)境(環境世界)識(認識作用)という差別はないのである。
合掌
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