〔『正法眼蔵』原文〕
こゝろみに徳山にかはりていふべし、
婆子バスまさしく恁麼インモ問著モンヂャクせんに、
徳山すなはち婆子にむかひていふべし、
「恁麼則你莫与吾売餅
《恁麼ならば則ち你ナンヂ吾が与タメに餅を売ること莫ナカれ》」。
もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利リンリの参学ならん。
〔抄私訳〕
「こゝろみに徳山にかはりていふべし、婆子まさしく恁麼問著せんに、
徳山すなはち婆子にむかひていふべし、
『恁麼ならば則ち你吾が与に餅を売ること莫れ』。
もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利の参学ならん」とある。
この「吾が与に餅を売ること莫れ」というのは、必ずしも「伶利の参学」であるとも思われない。ただ、老婆のはじめの言葉で、「道得ならんには、もちひをうるべし。和尚もし道不得ドウフトクならんには、もちひをうるべからず」と言った言葉で、「道得」(仏道の道理を言い得ていること)・「不道得」(仏道の道理を言い得ていないこと)の理がはっきり現れているのである。
「吾が与に餅を売ること莫れ」という言葉は、「不道得」に当たるから「怜悧」な言葉となるのである。「道得ならんには、もちひをうるべし」と言われる言葉は。「道得」に当たるのである。
「道得」であれば頭を剃るまいと言うのと違いがない。頭を洗って近づいたとき、そこで剃るか剃るまいかあれこれ考えることはないのである。雪峰が頭を剃ったところが、「道得」「不道得」の道理にぴったり合ったようなことである。
〔聞書私訳〕
「徳山すなはち婆子にむかひていふべし、「恁麼則你莫与吾売餅《恁麼ならば則ち你吾が与に餅を売ること莫れ》」とある。
「道得ならんには、もちひをうるべし」と言うのが、そのまま「心不可得」に当たるのである、「心」と「餅」はそれぞれ別ではないからである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
試みに徳山に代わって私が言おう、
老婆がそのように(どの心を餅で点心しますかと)問うたときに、
徳山は老婆に向かって言うといい、
「そう言うのなら、あなたは私に餅を売ってはならない」。
(こゝろみに徳山にかはりていふべし、
婆子まさしく恁麼問著せんに、徳山すなはち婆子にむかひていふべし、
「恁麼則你莫与吾売餅《恁麼ならば則ち你吾が与に餅を売ること莫れ》」。)
〔道元禅師が、一人二役で実際に問答をしてみせるのである。〕
もし徳山がそう言ったなら、賢く鋭い修行者と言えよう。
(もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利の参学ならん。)
合掌
コメント
コメントを投稿