〔『正法眼蔵』原文〕
婆子バスもし徳山とはん、
「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。
いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする」。
かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかつていふべし、
「和尚はたゞもちひの心を点ずべからずとのみしりて、
心のもちひを点ずることをしらず、
心の心を点ずることをもしらず」。
〔抄私訳〕
「もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利の参学ならん。婆子もし徳山とはん、『現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする』。かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかふていふべし、『和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず』とある。
これはただ、「不可得」であれば、「餅」をどうやって点ずるのかということだけ知っているのは、仏祖が談ずる三世の道理を知らない時のことである。今の「餅」をすでに「心」と談ずるからには、「餅」を「心」が「点ずる」とばかり心得るのは世間の考えである。「心のもちひを点ずることをもしらず」とは、この「心」がすなわち「餅」である道理である。だから、「心のもちひを点ずることをもしらず」と決められるのである。
〔聞書私訳〕
/「点ぜんとかする」とは、この「点」は、
成仏する、成仏しようというほどのことである。
/「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」とは、この三つの文句はただ同じ意味であり、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という意味である。
三世を「心」だ「不可得」だなどと解釈されていると思われるけれども、「心を点ずる」ことがはっきりしないのである。ただ、これは「心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをしらず」とあるのではっきりしているである。
また、「心の心を点ずることをもしらず」とは、「餅」と「点」と「心」が一つである道理を知らないというのであり、「不可得裏に」三世を「わん来ワンライせり」ということで理解された。三世と「心」は変わらず、一つであるから三世を「餅」の外に置くのは、これこそ「餅の心を点ずべからず」に当たるのである。「心」の「餅」を「点ずる」のだと、三世と「餅」と親密である道理を明らかにしたのである。
今の「心の心を点ずることをしらず」と言われるのは、三世と「心」、「餅」と「点」などをそれぞれ別に取り扱うところが、「心の心を点ずることをもしらず」と言われるのである。三世と「心」、「餅」と「点」は一つなのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
老婆は、もし徳山が、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得である、今餅でどの心を点じようとするのか」と問うなら、
(婆子もし徳山とはん、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする」。)
このように問うなら、老婆は、徳山にこう言うといい、
「和尚さんはただ餅が心を点ずることができないことだけ知って、
心が餅を点ずることを知らず心が心を点ずることも知らない」と。
(かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかふていふべし、
「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、
心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」。)
合掌
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