〔『正法眼蔵』原文〕
しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、
かくのごとくの道ドウあり。
しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」という、
この道理ならふべし。
三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。
火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師キョウジロンジきくべからず、
外道二乗しるべからず。
〔抄私訳〕
「しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、
かくのごとくの道あり。」とある。
「三位の古仏」とは、上に載せられた「雪峰」「玄砂」「圜悟」を指す。
「雪峰」と弟子の「玄砂」はともに青原の流れである。
「圜悟」は臨済の門流(一門)である。
「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、
この道理ならふべし。
三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。
火焔裏かならず仏道場なるべし。
経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。
「火焔」を「道場」とし、「三世諸仏が転大法輪」すると言えば、
「火焔」と「三世諸仏」が機(学人)を立て「法輪を転ずる」と理解し、三つのものを出しているように思われるが、そうではない。
つまり、今の「火焔」「三世諸仏」「転大法輪」は、ただ同じものである。
まったくこの三つのものは、片時も引き離されることがないからである。
だから、「三世諸仏」を「道場」として「火焔」が説法するとも、
「転大法輪」を「道場」として「三世諸仏」が説法するとも言うことができ、
「火焔裏」だけに限らず、風裏、空裏とも言うことができるのである。
そうではあるが、これらは四大五蘊(身心)にそなわるものではない。
〔聞書私訳〕
「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、
この道理ならふべし。
三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。
火焔裏かならず仏道場なるべし。
経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。
/「火焔裏」と「道場」は、説く者と説かれる所を立てる時は別であるが、
今は所在も、説法も、仏も同じである上のことである。
霊鷲山リョウジュゼン(仏陀が法華経等を説いた霊山)を仏のおられる処と言うのも、
身土不二シンドフニ(身体と環境は一体である)の意なのである。
つまり、説く者と説かれる所、聴く者と聴かれる所、
住む者と住まれる所はそれぞれ別ではない。
そのことを今の三人の言葉で理解すべきである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
だから、この三人の古仏が、同じように三世の諸仏のことを言うのに、
このような言葉があるのである。
(しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道あり。)
まず、雪峰が言う「三世の諸仏は、火焔の中(たった今)にあって、
仏の大法を転じる」という、この道理を学ぶべきである。
(しばらく雪峰のいふ三世諸仏、在火焔裏、転大法輪といふ、この道理ならふべし。)
三世の諸仏が大法を転じる道場は、必ず火焔の中(たった今)である。
(三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。)
火焔の中(たった今)は必ず仏の道場である。
(火焔裏かならず仏道場なるべし。)
これは、経典学者や論典学者は聞くことができず、外道(仏道以外の道)や
二乗(声聞・縁覚)は知ることができないものである。
(経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。)
コメント
コメントを投稿