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正6-24-1『第六行仏威儀』第二十四段① 〔三世の諸仏が仏の大法を説く道場は、必ず火焔の中(たった今)である〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、

かくのごとくの道ドウあり。  


しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」という、

この道理ならふべし。


三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。


火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師キョウジロンジきくべからず、

外道二乗しるべからず。



〔抄私訳〕

「しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、

かくのごとくの道あり。」とある。


「三位の古仏」とは、上に載せられた「雪峰」「玄砂」「圜悟」を指す。

「雪峰」と弟子の「玄砂」はともに青原の流れである。

「圜悟」は臨済の門流(一門)である。


「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、

この道理ならふべし。

三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。

火焔裏かならず仏道場なるべし。

経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。


「火焔」を「道場」とし、「三世諸仏が転大法輪」すると言えば、

「火焔」と「三世諸仏」が機(学人)を立て「法輪を転ずる」と理解し、三つのものを出しているように思われるが、そうではない。


つまり、今の「火焔」「三世諸仏」「転大法輪」は、ただ同じものである。

まったくこの三つのものは、片時も引き離されることがないからである。


だから、「三世諸仏」を「道場」として「火焔」が説法するとも、

「転大法輪」を「道場」として「三世諸仏」が説法するとも言うことができ、

「火焔裏」だけに限らず、風裏、空裏とも言うことができるのである。


そうではあるが、これらは四大五蘊(身心)にそなわるものではない。


〔聞書私訳〕

「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、

この道理ならふべし。

三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。

火焔裏かならず仏道場なるべし。

経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。


/「火焔裏」と「道場」は、説く者と説かれる所を立てる時は別であるが、

今は所在も、説法も、仏も同じである上のことである。


霊鷲山リョウジュゼン(仏陀が法華経等を説いた霊山)を仏のおられる処と言うのも、

身土不二シンドフニ(身体と環境は一体である)の意なのである。

つまり、説く者と説かれる所、聴く者と聴かれる所、

住む者と住まれる所はそれぞれ別ではない。

そのことを今の三人の言葉で理解すべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

だから、この三人の古仏が、同じように三世の諸仏のことを言うのに、

このような言葉があるのである。

(しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道あり。)


まず、雪峰が言う「三世の諸仏は、火焔の中(たった今)にあって、

仏の大法を転じる」という、この道理を学ぶべきである。

(しばらく雪峰のいふ三世諸仏、在火焔裏、転大法輪といふ、この道理ならふべし。)


三世の諸仏が大法を転じる道場は、必ず火焔の中(たった今)である。

(三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。)


火焔の中(たった今)は必ず仏の道場である。

(火焔裏かならず仏道場なるべし。)


これは、経典学者や論典学者は聞くことができず、外道(仏道以外の道)

二乗(声聞・縁覚)は知ることができないものである。

(経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。)




                                 合掌

                               


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