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正3-10-1②『第三仏性』第十段その1②〔仏は、何にも妨げられない智慧である〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

是れ使得無所礙風シトクムショゲフウなり、是れ無礙慧ムゲエなり。


於後能ココニヨく因果を使得シトクす、福智自由なり。



〔抄私訳〕

・「於後能ココニョく因果を使得す、福智自由なり」と言う。この因果も普通の因果ではなく、「使得無所礙風シトクムショゲフウ」の上の因果である。


/「使得」とは、「是仏」の「使得」である。「使い得る」のであり、残る所がないという意味である。「使得無所礙風」と言えば十分であろう。「風」という字は、どんなことを説明するのか。これは、ただ常に「無所礙風」 と言い慣れている言葉なので、「無礙」 という字にちなんで「風」と言うので、「風」が大切なのではない。第一段で仏性の海などと言うが、特別に海の字が大切ではないのと同じことである。


/「無所礙風」とは、仏の徳であり、仏の理である。解脱しているから何ものにも妨げられないのである。もっとも、風は世間で障りがないものの喩えに使うから「無所礙風」と言い、海は広いことの喩えに使うから仏性に付けて仏性海と言うのである。これほどの理由なのである。


/「無礙慧ムゲエ とは、これも仏の智慧であり、何にも妨げられない智慧であるということなのである。


/「於後能ココニヨく因果を使得シトクす、福智自由なり」と言う。この「後」とは、前後の後ではなく、「無礙慧」〈何にも妨げられない智慧〉であることを「後」と指すのである。「後」を「ここに」と読むべきか、どうかこの言葉は、前の「無所礙風」を「無礙慧」という道理に相応しくなく受け取られ、世間の言葉に似ている。『梵網経ボンモウキョウ(大乗戒が述べられている経) にも「因果の法に非ず」とあるのである。


仏の上で「因果」を立てるときは、「仏因によって仏果が得られる」のである。また、「大乗の因は諸法実相なり、大乗の果はまた諸法実相なり」という道理である。仏は「因に非ず果に非ず」と説くが、そのまま、その「因に非ず果に非ず」 を、今、ここでは「因果を使得す、福智自由なり」と説くのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

仏は、何にも妨げられない風を使い得るものであり、何にも妨げられない智慧なのである。(是れ使得無所礙風シトクムショゲフウなり、是れ無礙慧ムゲエなり。)


何にも妨げられない智慧は、よく因果を使い得て、衆生に福徳を得させることも、悟りの智慧を開かせることも自由自在なのである。

(於後能ココニヨく因果を使得シトクす、福智自由なり。)



                             合掌


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