〔『正法眼蔵』原文〕 しかあれども、想料すらくは、 玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取 エシュ せるか。 もししかあらば、なほ雪峰の道 ドウ にくらし。 火焔の三世諸仏のために説法のとき、 三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、 火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。 火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。 三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、 他よりかうぶらしむるにあらず。 火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、 火焔を火焔と認ずることなかれ。 まことに師資の道 ドウ なほざりなるべからず。 将謂赤鬚胡 ショウイシャクシュコ のみならんや、 さらにこれ胡鬚赤 コシュシャク なり。 〔抄私訳〕 「しかあれども、想料すらくは、玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。 もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし」とある。 これは、「転法輪」は「転法輪」であり、「説法」は「説法」であるということである。「転法輪」を「説法」だと玄砂が理解すれば、「雪峰の道にくらし」と言うのである。普通は、「転法輪」と「説法」は違いがない。それなら、どうしてこのように玄砂は理解するのか、気がかりに思われるが、何度も、ただ玄砂と雪峰の言葉を食い違うようにして言おうという意図である。 だから、「転法輪」を「説法」と理解したら、「雪峰の道にくらし」と言うのである。本当のところは、決して理が行く所が分からないのではないのである。 「火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」とある。 これは、玄砂の言葉で言わない言葉を取り出して、「しらず」「いはず」などと言うのである。雪峰の言葉の理の通じる所を、この文面にない言葉などを道元禅師が取り出し書き出されているのである。なしと言ってもみなこの言葉はあるのである。確かに「三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」という意味は明らかになるのである。 「火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ」とある。 確かに、一途に「火焔」とも決められない。今の「火焔」は、「三世諸仏」であるの...