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正6-28-2『第六行仏威儀』第二十八段②〔三世諸仏が法を聴くのは、諸仏の法を聴くのであり、 ほかから聴かされるのではないのである〕

〔『正法眼蔵』原文〕 しかあれども、想料すらくは、 玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取 エシュ せるか。 もししかあらば、なほ雪峰の道 ドウ にくらし。 火焔の三世諸仏のために説法のとき、 三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、 火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。 火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。 三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、 他よりかうぶらしむるにあらず。 火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、 火焔を火焔と認ずることなかれ。 まことに師資の道 ドウ なほざりなるべからず。 将謂赤鬚胡 ショウイシャクシュコ のみならんや、 さらにこれ胡鬚赤 コシュシャク なり。 〔抄私訳〕 「しかあれども、想料すらくは、玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。 もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし」とある。 これは、「転法輪」は「転法輪」であり、「説法」は「説法」であるということである。「転法輪」を「説法」だと玄砂が理解すれば、「雪峰の道にくらし」と言うのである。普通は、「転法輪」と「説法」は違いがない。それなら、どうしてこのように玄砂は理解するのか、気がかりに思われるが、何度も、ただ玄砂と雪峰の言葉を食い違うようにして言おうという意図である。 だから、「転法輪」を「説法」と理解したら、「雪峰の道にくらし」と言うのである。本当のところは、決して理が行く所が分からないのではないのである。 「火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」とある。 これは、玄砂の言葉で言わない言葉を取り出して、「しらず」「いはず」などと言うのである。雪峰の言葉の理の通じる所を、この文面にない言葉などを道元禅師が取り出し書き出されているのである。なしと言ってもみなこの言葉はあるのである。確かに「三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」という意味は明らかになるのである。 「火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ」とある。 確かに、一途に「火焔」とも決められない。今の「火焔」は、「三世諸仏」であるの...

正6-28-1『第六行仏威儀』第二十八段①〔玄砂は、「火焔が三世の諸仏のために説法すると、三世の諸仏は地に立って聴く」と言う〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  玄砂の道 ドウ に、「火焔 カエン 為 イ 三世諸仏説法、三世諸仏立地聴 リッチチョウ 」といふ、 これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、 いまだ転法輪すといはず、又三世諸仏の法輪を転ずといはず。 三世諸仏は立地聴すとも、 三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。 為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。 玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。 転法輪なしといはず。 〔抄私訳〕 「玄砂の道に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴」といふ」 (以下略) とある。 玄砂は、「火焔」 (たった今) の「説法」を「三世諸仏は地に立って聴く」と言っている。確かに、火焔が三世諸仏の為に説法しても、まだ法輪を転じるとは言わない。言わないからといって、この理が欠けているのではないが、ただ、雪峰は雪峰の言葉として動かさず、玄砂は玄砂の言葉を変えずに置くという、しばらくの義である。始めから終わりまで、まったく言葉も考えも矛盾する義ではないのである。 「三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん」とは、「三世諸仏の法輪」を「三世諸仏の法輪」として置き、「三世諸仏の法輪」を「火焔」が「転ずる」ということを、しばらく言うまいという意味合いである。 つまるところ、「火焔」と「三世諸仏」と「説法」とはそれぞれ別であるように思われ、「火焔裏」で「三世諸仏」が「説法」されるように思われるところを、いずれも別々にすべきものではない道理を、表そうとするほどの意味合いである。 「為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや」とある。 今の「三世諸仏の為に説法する火焔、又転大法輪すやいなや」と受けられるのは、「火焔」が「説法」すると玄砂が言われる所を、動かさずないでおいて、「転大法輪」という言葉を雪峰の言葉にいわせておこうという道理の一筋である。 また、「火焔」が「又転大法輪」である道理もあるので、「又転大法輪すやいなや」と受けられるのである。落ち着く所はただ同じことである。今の文面だけは、まずこのような考えを見失わないで書かれていると心得るべきである。結局、違わないのである。 「玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず」とある。 これは前に言ったように、雪峰は「転大法輪」と言い、玄砂は「説法」と言う時に、「転法...

正6-27『第六行仏威儀』第二十七段 〔火焔(たった今)の中で大法輪を転じるとは、行仏威儀(たった今の身心の在り様)を行じることである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕  雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。 玄砂の道 ドウ に混乱することなかれ。 雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。 火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界・二無尽法界 の周遍のみにあらず。一微塵・二微塵の通達のみにあらず。 転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。 転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。 〔抄私訳〕 「雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。 玄砂の道 ドウ に混乱することなかれ」とある。 雪峰の「三世の諸仏は火焔 (たった今) の中に在って大法輪を転ず」という言葉は不足していて、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないというのである。つまるところ、雪峰の言葉に、残る理がないところを表す意味合いである。だから、彼の言葉を「かならず委悉に参学すべし」と言うのである。 「雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり」とある。 雪峰と仏と皮肉骨髄 (全身心) が通じる理は、 本当に「仏威儀」 (たった今の在り様) を威儀する (行ずる) 」道理なのである。 「火焔の三世諸仏を在裏せしむる」とは、広狹多少の論を超越するのであるから、これは彼と同じものとして言うのではない。 だから「大小広狹の量に擬することなかれ」と言うのである。 「転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず」とある。 「転大法輪」 (たった今の在り様を転じる) のすがたは、自他のためではなく、 説も聴に対するものではなく、「転法輪」の独立のすがたである。 〔『正法眼蔵』〕私訳〕  雪峰の「三世の諸仏 (たった今に住む人) は火焔 (たった今) の中で、 大法輪 (たった今の在り様) を転ずる」ということを、 必ず詳しく学ぶべきである。 (雪峰の在火焔裏、転大法輪、かならず委悉に参学すべし。) 玄砂の「三世の諸仏は説法 (たった今を説く) するに、 聴法 (たった今を聴く) す」という言葉と混同してはならない。 (玄砂の道に混乱することなかれ。) 雪峰の言葉をわが物とするとは、仏威儀 (たった今の在り様) を 威儀する (行ずる) ことである (行仏威儀を行じることである) 。 (雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。) 火焔 (たった今) が三世の諸仏 (たった今に住んでいる人)...

正6-26-3『第六行仏威儀』第二十六段③〔転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 「転法輪」といひ、「転大法輪」といふ、その別あるか。 転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。 しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。 〔抄私訳〕 「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とある。 これは、「転法輪」「転大法輪」とある。「説法」は玄砂の言葉で、「転大法輪」は雪峰の言葉であるから、「説法輪」と「転大法輪」と言うとあるべきだが、ともに「転法輪」「転大法輪」とあるのは不審である。 だから、原本には「転法輪」の傍に「説 歟 」と付いているのである。説と転は、ずっと違うのではないが、雪峰と玄砂の言葉をしばらく「別ある」と言われるからにはこの言葉は疑問である。 「転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや」とある。 雪峰は「転大法輪」と言われ、玄砂は「説法」と示される。しばらく「法輪」を「法輪」として置き、「説法」を「説法」として置くという一応の考えである。 だからといって、ずっと違うのではない。これは、間違いなく「説法」は口業 クゴウ のはたらきであり、上の聖人が下の者に受けさせるものと思うのは、凡夫の妄見 (間違った考え) である。「説法」のすがたが、他の為でない道理が明らかである。 〔聞書私訳〕 /「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とは、同も別も二つの義があろう。そのわけは、大乗を説くのは「大転法輪」と言うからである。 「転法輪」とは、仏の金口より出ることは「法輪」であり、小乗も説く仏法東漸 トウゼン(仏法が次第に東方に伝わったこと) ということがあり、仏法がインドより伝わって始まったことは、『四十二章経』 (最初の漢訳経典) にある。これは、小乗の経であるが仏法東漸と言い、天台の初心の論議 (意義を論じること) である。 〔『正法眼蔵』私訳〕 〔玄砂は火焔が三世の諸仏のために〕説法 (転法輪) すると言い、〔雪峰は三世の諸仏が火焔の中にあって〕大法輪を転ずると言うが、両方の言い分に違いはあるか。 (転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。) 〔自問自答だ。〕 転法輪 (たった今の在り様を転じる) は説法だけではない、 説法は必ずしも他のためにするだけではない。 (転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。) 〔坐禅、礼拝、念仏、喫茶喫飯、...