〔『正法眼蔵』原文〕
しかあればすなはち、ただ人間を挙コして仏法とし、人法を挙して仏法を局量キョクリョウせる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ。
これただ業報ゴッポウの衆生なり。
いまだ身心シンジンの聞法モンポウあるにあらず、いまだ行道せる身心なし。
従法生にあらず、従法滅にあらず、従法見にあらず、
従法聞にあらず、従法行住坐臥にあらず。
かくのごとくの党類、かつて法の潤益ジュンエキなし。
行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、
無覚にあらず、有覚にあらずといふ、すなはちこの道理なり。
〔抄私訳〕
「ただ人間を挙して仏法とし、人法を挙して仏法を局量せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ。これただ業報の衆生なり。」とある。
文の通りである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるから、ただ人間界を取り上げて仏法としたり、
人間の狭い考えで仏法を推し量る家門は、
どれもこれもみな仏弟子と許してはならない。
(しかあればすなはち、ただ人間を挙して仏法とし、
人法を挙して仏法を局量せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ。)
これはただ業の報いを受けて現れただけの衆生である。
(これただ業法の衆生なり。)
まだ身心で仏法を聞いたことがなく、
まだ仏道を行じた身心がないのである。
(いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし。)
法によって生まれるのでもなく、法によって死ぬのでもなく、
法によって見るのでもなく、法によって聞くのでもなく、
法によって行住坐臥するのでもない。
(従法生にあらず、従法滅にあらず、従法見にあらず、
従法聞にあらず、従法行住坐臥にあらず。)
このような連中は、今まで仏法の利益リヤクにあずかったことがないのである。
(かくのごとくの党類、かつて法の潤益なし。)
行仏(今の様子を行ずる行仏という名の仏)は、本覚(一切衆生に本来的に具有されている覚り)にもとらわれず、始覚(修行して始めて得る覚り)にもとらわれず、無覚(覚知する働きが無い)でもなく、有覚(覚知する働きが有る)でもないという、
これが行仏の道理である。
(行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、無覚にあらず、有覚にあらずといふ、
すなはちこの道理なり。)
〔本覚も始覚も概念として倚りかかれば病の一つだ。概念は死物である。
行仏は概念に倚りかかっていては行仏にならない。〕
合掌
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