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正6-9-1『第六行仏威儀』第九段①〔行仏威儀に一究あり〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 しばらく行仏威儀に一究あり。


即仏即自と恁麼来インモライせるに、吾亦汝亦ゴヤクニョヤクの威儀、


それ唯我能ユイガノウにかゝはれりといふとも、


すなはち十方仏然ブツネンの脱落、これ同条のみにあらず。


かるがゆゑに、古仏いはく、

「体取那辺事タイシュナヘンジ、却来這裏行履キャライシャリアンリ

《那辺の事を体取し、這裏に却来して行履せよ》」。



〔抄私訳〕

「しばらく、行仏威儀に一究あり」と言って、又行仏の姿を出される。

これは、「吾亦」も法界を尽くし、「汝亦」も法界を尽くし、或いは仏も自も、それぞれ究尽する能(はたらき)に関わるといっても、それぞれ引き離されるべき義ではない。


このように、それぞれに「唯我能」(ただわれのみよく)に関わるけれども、すべてこの姿の隔てが無い所を「十方仏然の脱落」(十方のどの仏もどの仏もみな同じで行ずる人はみな行仏である)と言うのである。経に、「唯我知是相十方仏亦然」(唯我のみ是の相を知れり、十方の仏も亦然なり)とある言葉を取り出して書かれるのである。


「同条のみに非ず」とは、これらばかりではなく、この道理は、あらゆることに通じるというのである。


「かるがゆゑに、古仏いはく、「体取那辺事、却来這裏行履《那辺の事を体取し、這裏に却来して行履せよ》。すでに恁麼保任するに、諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり。」とある。


この言葉は、あちらの事を説けば、こちらにその理が来るという意である。悟りの意味合いである。例えば、狗子(犬)を説けば仏性がここに来るというようなことである。この道理であるから、「諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり」とあるのは、いかにもその趣旨がある。必ずしも法身の「行仏」に限らず、一切の法はこの道理である。これは「行仏威儀」〈今きちっとこの通りある身心のありようを行じる行仏という名の真実のありようが、個々に現成する姿である。


〔聞書私訳〕

/「それ唯我能ユイガノウにかかはれりといふとも、すなはち十方仏然ブツネンの脱落、これ同条のみにあらず。」と言う。

「我能」(我れよく)と言えば、「十方の仏も然り」とは言い難い。「十方の仏は然らず」と言うべきであるが、仏道の言葉は、このようにただ「唯我」と「十方仏」はそれぞれ別ではないから、逆に「同条のみにあらず」と言われるのである。


/古仏いはく、「那辺の事を体取し、這裏に却来して行履せよ」とは、「体取」とは明らめる意である。「那辺」と言い「這裏」と言うのは、「汝も亦是くの如し、吾も亦是くの如し」の意味合いであり、どこも指す所はないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 しばらく行仏威儀(今きちっとこの通りある身心のありようを行じる行仏という名の真実のありようを究め尽くす法がある。

(しばらく行仏威儀に一究あり。)


すなわち仏すなわち自己としてこのように現れていることにより、吾もまたこのようにある威儀(今きちっとこの通りある身心のありよう)、汝もまたこのようにある威儀である。

(即仏即自と恁麼来せるに、吾亦汝亦の威儀、)


釈尊が言われた「仏与仏乃究尽、唯知是相十方仏亦然」《仏と仏のみく究尽す、唯のみ是の相を知れり、十方の仏もまた然なり》の「唯タダ我れのみ能く」に関わっているといっても、

(それ唯我能にかかはれりといふとも、)


それは、釈迦仏お一人だけではなく、十方のどの仏もみな同じで、行ずる人はみな行仏(行仏という名の真実のありよう)であり脱落しているが、その行は千差万別だから同じとばかりは言えない。

(すなはち十方仏然の脱落、これ同条のみにあらず。)


 だから、古仏は言う「かの久遠の大事を体得して、今ここに安んじて生活せよ」。

(かるがゆゑに、古仏いはく、「体取那辺事、却来這裏行履《那辺の事を体取し、這裏に却来して行履せよ》」。)


                          合掌



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