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正6-7-3『第六行仏威儀』第七段③〔『正法眼蔵』私訳〕〔法の為に身を捨てる〕

 /「過量の面目あり」とは、「過量」という言葉に、二つの意味がある。例えば、長さ一尺の物を本として、長さが一尺一寸も二寸もあれば「過」という意味もあり、これは世間で言う「過」である。

今はまったく量を置かないから「過量」と使う。尽界が全量の意である、と言うのである。「過量」はこれであり、「行仏」の量である。

/「行仏の威儀に一究あり」とは、「即仏即自と恁麼来せるに、吾亦如是・汝亦如是の威儀なれば」、仏がそのままみずからであるから「一究」というのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この行仏威儀(今きちっとこの通りある身心のありようを行ずる行仏という名の真実のありよう〉に、

法の為に身を捨てるということ(身をなげうってただ法に打ち任せて、法から生まれ出て法を命として今日を渡ること)があり、

身の為に法を捨てるということ(死ぬべきを死なないで法のために身を保持すること)がある。

身命を惜しまないということ(全身を法界になげうって少しも我れを惜しまないこと)があり、

ただ身命を惜しむということ(ただ仏の法灯を相続するため、仏の教えを行じるために身命を惜しむこと)がある。

(ここに為法捨身あり、為身捨法あり、不惜身命あり、但借身命あり。)


〔三界は無法(三界を解脱して法界でない時節はないから、済度しようとしても衆生はない)であるから、〕法の為に法を捨てるだけではなく、

〔三界は唯一心のみで三界はないから、〕心の為に法を捨てる行仏威儀がある。

(法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀イイギあり。)


捨て方にもいろいろあることを、忘れてはならない。

(捨は無量なること、忘るべからず。)


仏の量りを用いて、行仏威儀の大道(誰でも必ず今その通りにあること)を推し測ってはならない。

(仏量を拈来ネンライして大道を測量シキリョウし、度量タクリョウすべからず。)

〔必ず今この通りに在ること(行仏威儀の大道)は、今この通りに在ること以外で体験できるものではない。〕


仏の量りは行仏威儀の大道から見れば一隅である。

たとえば、〔春には蝶も飛ぶ、木も芽吹く。そうすれば、〕花が開くのは春の一部であるようなものである。

(仏量は一隅なり、たとえば花開のごとし。)


心の量りを用いて行仏威儀を探し求めたり、疑ったりしてはならない。

(心量を挙来して威儀を模索すべからず、擬議すべからず。)


〔行仏威儀と言えば、〕心の量りは一面である。

たとえば、〔尽法界と言えば〕世界も一部でしかないようなことである。

(心量は一面なり、たとえば世界の如し。)


「一茎草を拈じて丈六の金身となす」というが、一本の草でも、明らかに仏祖の心の量りである。

(一茎草量、あきらかに仏祖心量なり。)

〔一行一行がみな行仏である。〕


これは行仏の跡かたを表す一行一行である。

(これ行仏の蹤跡を認ぜる一片なり。)


一心の量がたとえ無量の仏の量を包含していると徹見しても、

(一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、)


この行仏の立ち居振舞いを量ろうとするのには、もともと行仏の量の面目がある。

(行仏の容止動静を量ぜんと擬するには、もとより過量の面目あり。)


行仏の量の身心の活動であるから、何と表現しても中アタらないのであり、使うことができないのであり、量るlことができないのである。

(過量の行履アンリなるがゆえに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。)

〔行仏はただ行ずるばかりである。〕


                          合掌



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