〔『正法眼蔵』原文〕
すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。
四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。
この道理わずかに疑著せんも、参学の分なり。
〔抄私訳〕
「四生」は普通に言うところであるが、「四死」という事は未だ聞いたことがない。もっとも、「四生」があるなら、どうして「四死五死」、或いは「千死万死」がないことがあろうか。全機の死の道理は決して生と違うことがないから、この道理を「参学の分なり」と、しばらく受けられるのである。
〔聞書私訳〕
/「胎卵湿化生」の外に「胎卵湿化生」とは、尽十方界の胎生・尽十方界の卵生・尽十方界の湿生・尽十方界の化生とこのようである。
教家では、「胎生」「化生」の者は、修行して成仏すると許すが、直ちに仏とは言わない。この宗門では、「胎生」すれば「胎生」の仏、「化生」すれば「化生」の仏と説くのである。「卵生」「湿生」等は、業力(業因の力)が少ないから人となり難い。生々を経て、善業を増やしてついに成仏できるというのである。
この言葉は、御『聞書』(師の詮慧の)に書き載せられているからこれを載せるが、いかにも不審である。《書き入れ:もっとも、この言葉はただ教家で説く一般の道理を載せられたのであり、仏道の上で説くところではない。いかにもこの部分は間違いである。》従って省略した。
「卵生」なら「卵生」の仏、「湿生」なら「湿生」の仏と説くべきである。従って四生の内、「卵生」「湿生」の二つが業力を隔て、生々を経てついに成仏するという言葉は大変違っていると思われる。もっとも、これはひとえに経豪キョウゴウ(抄の筆者)の愚かな考えである。《傍注:そうであるが、私(経豪)の考えも違わない。》目に見えない働きと目に見える働きについて、恐る恐る謹んで申し上げるが、後にこれを注釈する。
/「四死」「三死二死」「五死六死」「千死万死」の事は、我々が五六などと言う数ではない。無縫塔(塔身が卵形の墓)を七尺八尺と言い、首の長いこと二寸などと用いるようなことである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
既に四生はみな承知しているところである、では、死はいくつあるか。
(すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。)
四生には四死もあろう、また、三死二死もあろう、
また、五死六死もあろう、千死万死もあろう。
(四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。)
〔このように参究すべきである。〕
この道理をわずかに疑うのも、参学の一部である。
(この道理わずかに疑著せんも、参学の分なり。)
〔大疑の下に大悟がある。〕
合掌
追伸
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