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正6-11-2『第六行仏威儀』第十一段②〔大きなものでもなく小さなものでもないことを疑うかもしれないが、これが行仏威儀である〕

 〔『正法眼蔵』私訳〕

大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、

威儀行仏なり。


仏々祖々の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、

ともに不曽蔵フゾウゾウを徧界ヘンカイと参学すべし。


徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。


これ行仏一中の威儀なり。


大の有にあらざる、小の有にあらざる、

疑著ギヂャクににたりといへども、威儀行仏なり。



〔抄私訳〕

「徧界不曽蔵」(徧界ヘンカイは曽カツて蔵カクさず:世界中どこにも隠れるところがなく、真実は常に顯れている)は普通の言葉である。これは、やはり物を置いて隠れないと言う意味合いも出てくるにちがいない。「不曽蔵を徧界と参学」するのである。例えば、発菩提心を菩提心発と言うようなことである。


「徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。これ行仏一中の威儀なり。」とある。これは前に言ったように、いずれ「徧界不曽蔵」という言葉について邪見が出てくるかもしれないが、これも捨てるべき言葉ではなく、しばらくの義である。これらは皆「行仏一中の威儀」である。


〔聞書私訳〕

/「大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、威儀行仏なり」という。「あらざる」「あらざる」とは、「極大」「極小」を指すのである。必ずしも、大の姿が有ると心得てはならない。これは「行仏威儀」である。


仏法の「有」であるなら、「大に非ず小に非ず」と言うのを「行仏威儀」と言うことができる。一寸より一尺は大きいと言うのは世間の法である。仏法では「大」を「小」と使い、「小」を「大」と使うのではなく、法界に対して「大小」を立てるのである。

須弥山シュミセン(世界の中心にそびえる巨大な山)が芥子粒の中に入るのは、人知では測り知れない不思議な変化ヘンゲではないのである。


/「徧界不曽蔵」「不曽蔵徧界」という事。「徧界不曽蔵」は普通の言葉である。「不曽蔵を徧界」と言う時は、一々の物の上で言う意味合いであり、「徧界不曽蔵」とは、一々の物を置かないで言うのである。例えば、「諸法の仏法なる時節、まどひありさとりあり」と言うような時を、「不曽蔵を徧界」と言い、「万法われにあらざる時節」が「徧界不曽蔵」に当たる。


「徧界不曽蔵」を、只あまねくひろく「不曽蔵」とのみ心得てはならない。仏道の「不曽蔵」は小の「不曽蔵」、一の「不曽蔵」があり、二の「不曽蔵」もあるのである。「不曽蔵を徧界と参学すべし」と言う時は、「三界は唯心」の道理を「不曽蔵」と言うのである。このように言う時こそ、「不曽蔵」が「徧界」でもあるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

大きなものでもなく小さなものでもないことを、疑うかもしれないが、これが行仏威儀(必ずきちっとその通りにある身心の様子の行仏という名の真実のありよう)である。

(大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども、威儀行仏なり。)


仏祖方が言う、全天地の威儀は、広大なことばかりでなくお茶を呑んだり洗面をするところに、大地を尽くす威儀(必ずきちっとその通りにある身心の様子)が現れ、その一つ一つの立ち居振舞いに何も蔵カクさずに現れていることが全世界であると学ぶべきである。

(仏仏祖祖の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、ともに不曽蔵を徧界と参学すべし。)


全世界が何も蔵さずに現れているだけではない。

(徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。)


これが行仏という名の身心の様子にあたるのである。

(これ行仏一中の威儀なり。)



                       合掌



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