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正6-5-3『第六行仏威儀』第五段③〔我れ本より菩薩道を行じて〕〔『正法眼蔵』私訳〕

 

 それゆえに、「仏が久遠劫において菩薩道(行仏)を行じ、今までの寿命は今なお尽きず、これから後の寿命はまた上の百千万億倍するほどの長さがある」のである。《『法華経寿量品』である》

(かるがゆえに、「我れ本より菩薩道を行じて、成ずる所の寿命、今なほ未だ尽きず、また上の数に倍せり」なり。)


知るといい、〔一行は一行ぎり、行ずれば行ずるところに如来は現れる、だから〕菩薩(因位の釈迦)の寿命が今の釈迦牟尼仏の寿命まで連綿と続いているというのではなく、仏の寿命が過去の方に行きわたっているというのでもないのである。

(しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。)


今言う「また上の数に倍せり」とは、行仏の一行の中に一切の時間が包含されるということである。言ってきた「今猶尽きず」とは、行ずるところに全寿命が包含されるということである。

(いまいふ「上数」は、全所成なり。いひきたる「今猶」は、全寿命なり。)


「仏が久遠劫において行じてきた菩薩道」が、たとえ久遠劫の昔から今の釈迦仏に至るまで間断なく相続していても、百年の一生を抛ナゲウって、生きるも死ぬも自然な成り行きに任せるのである。

(「我本行」たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横なり。)

〔この二句で常見と断見の二見をはらわれる。たとえば、流れる川は一筋に続いているものだと思うが、水玉をすくってみると、一つ一つだ。前後際断するけれども、万里一条鉄の道理があるのである。〕


そうであるから、修証(修行が悟り)は無いのではなく、修証は有るのではなく、修証は染汚ゼンナ(もう一つのありように染め汚されること)ではない。

(しかあればすなはち、修証は無にあらず、修証は有にあらず、修証は染汚にあらず。)


仏もなく、行ずる人もなくただ行ばかりのところにたとえ百千万の行が競い起っても、行仏をもう一つのありようによって染め汚することはない。

(無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず。)


だから行仏は修証に染め汚されないのである。(ゆえに行仏の修証に染汚せられざるなり。)


修証が直きに不染汚というのではない、この不染汚は、無いのではなく修証なのである。

(修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。)



                            合掌



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