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正6-5 -1『第六行仏威儀』第五段①〔仏もなく、行ずる人もなくただ行ばかりのところにたとえ百千万の行が競い起っても、決して行仏を汚すことはないのである〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 かるがゆゑに、「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽コンユウミジン

復倍上数ブバイジョウシュなり。

《我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、

また上の数に倍せり》」なり。《脚注:『法華経』の文である》


 しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、

仏寿命の過去に布遍せるにあらず。


いまいふ「上数」は、全「所成ショジョウ」なり。


いひきたる「今猶コンユウ」は、全「寿命」なり。


「我本行ガホンギョウ」たとひ万里一条鉄なりとも、

百年抛却ホウキャク任縦横ニンジュウオウなり。


 しかあればすなはち、修証シュショウは無にあらず、修証は有にあらず、

修証は染汚ゼンナにあらず。


無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず。


ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。


修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。



〔抄私訳〕

これは、我れとは釈尊のことである。我れが因位(修行中の菩薩の位)で菩薩の道を行じた時の「寿命、今猶」とは、今すでに、仏果円満の時の「寿命」も「未だ尽きず」、「また上数に倍せり」とは未来にもこの寿命は尽きないである、と言われたように思われる。これは、過去・現在・未来の三世を立てたことに似ており、上の理に背くのである。


「しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず、いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全寿命なり。」とは、上に言うところの昔より今までこの寿命は続いているように思われる所を嫌われるのである。


「いまいふ上数は、全所成なり、いひきたる今猶は、全寿命なり」とは、過去の因位よりの寿命が仏果(修行の結果得られる仏の位)まで相続したということではない。「今猶」を「全寿命」と言うのである。いはば、「我本行」も「菩薩道」も、「所成寿命」も、「今猶」も「未尽」も、「復倍」も「上数」も、「行仏威儀」なのである、個々にに威儀が現成するからである。


又、「我本行」は、例えばどこまでも一通りであっても、「百年抛却(百年を抛って)任縦横(縦横するに任す)なり」である。これは、「所成寿命」とも、「上数」とも、「今猶」とも、「復倍」とも無尽に説かれるところを「任縦横」と言うのである。


「無仏無人の処在」とは、有だ無だ、修だ証だ、染汚だなどという言葉などを指すから、「百千万ありといへども」これらは皆「行仏」を「染汚」しないのである、「行仏」が独立するからである。


この道理を用いて、「行仏の修証に染汚せられざるなり」と言うのである。たとえば、悉有だ、山河大地だ、蚯蚓キュウインだなどと様々に言われるけれども、仏性は悉有にも有無にも蚯蚓にも染汚されないという程の意味である。


「修証の不染汚なるにはあらず」とは、「修証は無きにあらずと」言えば、嫌っているように思われるが、これは本意ではない。「修証」と「不染汚」と「不無」が、ここでは「行仏の威儀」(行仏という名の真実のありようの今きちっとこの通りある身心のありようなのである。


「無きにあらず」と嫌っている「修証」ではない所を、このように言うのである。「不染汚」を「不無」と言うのである。これは、個々に威儀が現成する姿である。


                             合掌



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