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正6-3 『第六行仏威儀』第三段〔仏縛とは、菩提を菩提だと知り理解して、その知や理解に縛られてしまうことである〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 「仏縛」といふは、菩提を菩提と知見解会ゲエする、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。


一念を経歴キョウリャクするに、なほいまだ解脱の期ゴを期せず、いたづらに錯解サクゲす。


菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし。


たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛ムジョウジバクなり。


縛々綿々として樹倒籐枯ジュトウトウコにあらず。


いたづらに仏辺の窠窟キクツに活計カッケイせるのみなり。


法身ホッシンのやまふをしらず、報身ホウジンの窮キュウを知らず。



〔抄私訳〕

まさに、菩提を菩提(悟り)と知れば、仏道の言葉だと思われる。しかし、菩提を菩提と知れば、見るものと見られるものがあることになる。知るものと知られるものが関わり合いになる所を、「即縛せられぬ」と言うのである。まさに、この考え方では、「一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す」るのである。「菩提を則ち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし、誰か是れを邪見といはん」とは、一般の人の考え方を言うのである。


「これすなはち無縄自縛なり。縛々綿々として樹倒籐枯にあらず。いたづらに仏辺の窠窟に活計せるのみなり。」とある。

これは別に子細はない。前出の「菩提を菩提と知見解会する」という言葉を斥けられると理解すべきである。


「法身のやまふ」とは、「菩提を菩提と知見解会する」見解を指すのである。「報身の窮」とは、ただ「報身」のありようを「知らず」というくらいの意味なのである。


〔聞書私訳〕

/「一念を経歴するに、なほ未だ解脱の期を期せず」と言う、

この「一念」は、凡夫の念であるから「解脱の期を期せず」と言うのである。


/「法身のやまふをしらず、報身の窮をしらず」と言う、

これは、「菩提を菩提と知見解会する」考えを病とも窮とも使うのである。窮は痛みであり、例えば、病と使うのと同じである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 仏縛とは、菩提(悟り)を菩提だと知り理解して、

その知や理解に縛られてしまうことである。

(仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会ゲエする、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。)


一刹那を経過しても、なおまだ解脱の機会を期せず、

菩提は一刹那にあるのに誤って理解する。

(一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。)


菩提を菩提だと考えるのは、

菩提とはこんなものだという思いが浮かんだだけのことである。

(菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし、)

〔自分が菩提となったのではない〕。


誰がこれを邪見と言うのだろうと思うのは、

縄も無いのに自分の考えが縄となって自分を縛ることである。

(たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛なり。)


いつまでも縛られていて、

しかも樹が倒れ巻きついていた藤づるも枯れるということにもならない。

(縛々綿々として樹倒籐枯にあらず。)


無益に仏のまわりの穴ぐらで生活しているに過ぎないのである。

(いたづらに仏辺の窠窟キクツに活計カッケイせるのみなり。)


この類は、法身ホッシン(仏の自性である真如そのもの)が病んでいることを知らず、

報身ホウジン(修行の報いとして受けた仏の身)が動きがとれないことを知らないのである。

(法身のやまふをしらず、報身ホウジンの窮キュウを知らず。)



                   合掌



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