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正6-1後半『第六行仏威儀』第一段 〔『正法眼蔵』私訳〕〔仏たちは必ず威儀を行じ尽くして少しも欠けるところがない〕

 〔『正法眼蔵』私訳〕

 仏たちは必ず威儀イイギ〈今きちっとこの通りある身心のありよう〉を行じ尽くして少しも欠けるところがない、これが行仏という名の仏である。

(諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。)

〔今見る通りにきちっとこの通りある、今聞く通りにきちっとこの通りある、このような身心のありようを自覚し、実践するのが行仏である。〕


行仏は、報身ホウジン(修行の証として現れる仏)ではない。

(行仏それ報仏にあらず、)


応身オウジン(衆生教化のために現れる仏)でもない。

(化仏にあらず、)


自性身仏(法身の仏)でもなく、他性身仏(報身の仏)でもない。

(自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。)


始覚発心修行し迷いを転じて、始めて得る覚り

本覚(一切衆生が本来的に具有している覚り)でもない。

(始覚本覚にあらず、)


性覚(心性が仏)無覚(一切の分別を離れた仏)でもない。

(性覚無覚にあらず、)


このような概念上の仏などは、

まったく行仏に肩を並べることはできないのである。

(如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。)


                    合掌



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