〔『正法眼蔵』私訳〕
仏たちは必ず威儀イイギ〈今きちっとこの通りある身心のありよう〉を行じ尽くして少しも欠けるところがない、これが行仏という名の仏である。
(諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。)
〔今見る通りにきちっとこの通りある、今聞く通りにきちっとこの通りある、このような身心のありようを自覚し、実践するのが行仏である。〕
行仏は、報身ホウジン仏(修行の証として現れる仏)ではない。
(行仏それ報仏にあらず、)
応身オウジン仏(衆生教化のために現れる仏)でもない。
(化仏にあらず、)
自性身仏(法身の仏)でもなく、他性身仏(報身の仏)でもない。
(自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。)
始覚(発心修行し迷いを転じて、始めて得る覚り)
本覚(一切衆生が本来的に具有している覚り)でもない。
(始覚本覚にあらず、)
性覚(心性が仏)無覚(一切の分別を離れた仏)でもない。
(性覚無覚にあらず、)
このような概念上の仏などは、
まったく行仏に肩を並べることはできないのである。
(如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。)
合掌
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