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正6-1『第六行仏威儀』第一段〔仏たちは必ず威儀を行じ尽くして少しも欠けるところがない〕

 『正法眼蔵第六行仏威儀』

(正法眼蔵ショウボウゲンゾウ涅槃妙心ネハンミョウシン

(道元禅師が自己の真相を自覚され言語化され収められた蔵)


第六巻行仏威儀ギョウブツイイギ

(今きちっとこの通りある身心のありようを行ずる行仏という名の仏)



〔『正法眼蔵』原文〕

 諸仏かならず威儀を行足ギョウソクす、これ行仏なり。


行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。


始覚シカク本覚ホンガクにあらず、性覚無覚にあらず、如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。



〔抄私訳〕

「行仏の威儀」と言えば、「仏」の「威儀」(今きちっとこの通りある身心のありよう)を欠けるところなく具える法〈ありよう〉と心得るにちがいない。説くことは口業クゴウ(口のはたらき)に負わせ、観念(観想の念仏)や観解(ものの道理を観察して本意をよく了解すること)は意業に集約し、「威儀」は身業に負わせて、一般にはこれを言うるのである。


今の「行仏の威儀」の「威儀」は、「仏」を指して「威儀」と言い、決して具える法ではない。だから、「報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず、始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず」と言うのである。


この道理を用いて、「諸仏かならず諸仏を行足す、これ諸仏なり」とか、又、「威儀必ず諸仏を行足す、これ威儀なり」とか又、「威儀威儀を行足す、これ威儀なり」とか言えるのである。


本当に、この「行仏の威儀」に肩を並べるものはない。「報仏」「化仏」から「始覚」「本覚」まで言われるのは、皆その性質と位があるが、今の「行仏」は決してこれらのことではないのである。


〔聞書私訳〕

/行は身の「威儀」に付く、行住坐臥である。止観シカン(天台止観)は意業(意のはたらき)に置くが、これは教学の考えである。『正法眼蔵第四身心学道』〈身心のありように学ぶ〉は今の「行仏」である。


そもそも、今の「行仏」(行仏という名の仏)という事はどういうことか。「行仏」とは普通とは異なる名称である。そのわけは、行ずる時は因位(まだ悟りを開くに至らない位)で菩薩の位であり、万行の功徳が満ちて仏を証すると言っても、「行仏」とは言えないが、教行証(教理、実践、証果)の三つを一つに言うときに初めて「行仏」と言うことができる。悟りを期待しない行であるからである。


/「行仏」という事は、教家(経典に依る宗派)にないわけではない。「大乗の因は諸法実相(一切は真実のすがたである)であり、大乗の果はまた諸法実相である」と言い、この因果ほどの「行」と心得るべきである。行を仏がする、仏を行ずると言うのではない。仏を行ずれば、行ずるものと行ぜられるものがあるようになるからである。


/聖者について言う時でも、有学・無学と言って無学を取る。まして、仏に行を付けることはできないが、今の「行仏」は、「報仏・化仏・自性身仏・他性身仏・始覚・本覚・性覚・無覚等の仏」に「肩を並べる事はできない」と言い、ただ「行」と言うのである。


/「自性身仏」は法身の仏に当たる。「他性身仏」は報身の仏に当たる。


/「報仏」《化・報に付けた仏である。又、修因感果(修行することで、相応の証果を感得すること)の仏を報仏と言う。》


/「化仏」ケブツ《化は無からたちまち現れるのを名づけてを化と言い、にわかに出現して人を教化する仏である。》


/自性仏《元よりの仏である。》


/他性仏《自に対する。因位(菩薩の位)の行による随他仏(他に随う仏)ではなく、他性仏であり、自性仏に対する言葉である。》


/もっとも、「報仏・化仏・始覚・本覚」と言っても、決してこれらの言葉を嫌うのではない。ここで言うときは、どれも「行仏」ほどに言うのである。


                    合掌



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