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正5-5-1『第五即心是仏』 第五段① 〔ただ仏祖と仏祖だけが即心是仏してきた〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 いはゆる仏祖の保任ホニンする即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。


唯仏祖与仏祖ユイブッソヨブッソのみ即心是仏しきたり、究尽グウジンしきたる聞著モンチャクあり、行取ギョウシュあり、証著ショウチャクあり。


 「仏」百草を拈ネン却しきたり、打失タシツしきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず。


 「即」公按あり、見成を相待ソウタせず、敗壊ハイエを𢌞避カイヒせず。


 「是」三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。


 「心」牆壁ショウヘキあり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。


 あるいは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究す。


かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙コして即心是仏に正伝するなり。


かくのごとく正伝して今日にいたれり。いはゆる正伝しきたれる心シンといふは、一心一切法、一切法一心なり。



〔抄私訳〕

「聞著」「行取」「証著」というのも、「即心是仏」の上の言葉である。

また、「即心是仏」をひっくり返して、「仏即是心」を解釈されるにあたって、先ず「仏」を解釈され、「仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず」と言う。これは、「百草を拈じて(つまんで)丈六の金身(背丈一丈六尺の仏)を見る」という言葉があるが、今は、この「百草」(森羅万象)は「仏」であるから、「仏百草」と上げられるのである。


これは、本の言葉を変えて、「丈六」に似せて説かず、ただ「仏百草」は「仏百草」で独立すると言うのである。


また、「即公按あり、見成を相待せず、敗壊を𢌞避せず」と言う。「仏」と「百草」は同じ意味である。


また、「是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず」と言う。これも、「三界」(あらゆる世界)の道理を、しばらく「退出にあらず、唯心にあらず」と言われる。前に「仏即是心」とあるのを、一つ一つ解釈されるのである。


「仏百草」の言葉は「仏」であり、「即公按あり」とは「即」であり、「是三界あり」とは「是」であり、「心牆壁あり」とは「心」である。この「即」「是」の二字は、同じ意味だと思われる。ところが、「即」を「公按」とし、「三界」を「是」と説くのである。


「三界唯心」と説くから、「三界」は「三界」であり「唯心」の言葉を加えないのである。「三界」(あらゆる世界)が独立している意味である。


「心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず」と言う。これも、ただ「仏」「即」「是」は、同じ意味である。「牆壁瓦礫」の言葉にちなんで、「泥水」「造作」などという縁のある語が出てくるのである。これらは、皆解脱の上の道理である。


「あるいは「即心是仏」を参究し、「心即是仏」を参究し、「仏即是心」を参究し、「是仏心即」を参究す。」とある。あれやこれや互い違いに説くが、ただ「即心是仏」の究尽する道理だけである。だから、「即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり」と決着をつけらるのである。


「いはゆる正伝しきたれる心シンといふは、一心一切法、一切法一心なり」とある。「即心是仏」が「即心是仏」に正伝するのである。その「心」の姿は、どのようであるかと言うと、一心が一切の法であり、一切の法が一心であるのである。


ただ、一つの物をあれやこれや言われるのである。法(真理)の甚だ深い時、このように言われるのは、きわめて親密な道理である。やはりそれをあれと言えば、相対している意味合いもあるが、そうではなく、ただ、一つの法(ありよう)が究め尽している道理を、このように言われるのである。



                        合掌



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