スキップしてメイン コンテンツに移動

正5-3-1『第五即心是仏』第三段① 南方の知識の教え

 〔『正法眼蔵』原文〕

 大唐国大証国師慧忠和尚問僧、「従何方来《何れの方よりか来たれる》」。


 僧曰、「南方来《南方より来る》」。


 師曰、「南方有何知識《南方に何なる知識か有る》」。


 僧曰、「知識頗多《知識頗る多し》」。


 師曰、「如何示人《如何が人に示す》」。


 僧曰、「彼方知識、直下示学人即心是仏。《僧曰く、彼方の知識、直下チョッカに学人に即心是仏と示す。》


仏是覚義、汝今悉具見聞覚知之性。《仏は是れ覚の義なり、汝今、見聞覚知の性ショウを悉具せり。》


此性善能揚眉瞬目、去来運用。《此の性善能ヨクく揚眉瞬目ヨウビシュンモクし、去来運用コライウンヨウす。》


徧於身中、頭頭知、脚脚知、故名正遍知。《身中に徧アマネく、頭にるれば頭知り、脚にるれば脚知る、故に正遍知ショウヘンチと名づく。》


離此之外、更無別仏。《此れを離れて外、更に別の仏無し。》


此身即有生滅、心性無始以来、未曾生滅。《此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来コノカタ、いまだ曾て生滅せず。》


身生滅者、如竜換骨、似蛇脱皮、人出故宅。《身生滅するとは、竜の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。》


即身是無常、其性常也。《即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。》


南方所説、大約如是。《南方の説く所、大約是の如し》




〔『正法眼蔵』私訳〕

 唐の大証国師南陽慧忠和尚(六祖の弟子)が、ある僧に問うた、「どこから来たのか」。

(大唐国大証国師慧忠和尚僧に問う、「従何方来《何れの方よりか来たれる》」。)


僧が答えた、「南方から参りました」。

(僧曰、「南方来《南方より来る》」。)


師が言った、「南方にどのような知識人の師範となるべき存在であり、勝れた徳を持つ人がおられるか」。

(師曰、「南方有何知識《南方に何なる知識か有る》」。)


僧が言った、「知識はとても沢山おられます」。

(僧曰、「知識頗多《知識頗る多し》」。)


師が言った、「どのように人を教えているのか」。

(師曰、「如何示人《如何が人に示す》」。)


 僧が言った、「あちらの知識は、直ちに修行僧に即心是仏のことを教えます。

(僧曰、「彼方知識、直下示学人即心是仏《彼方の知識、直下に学人に即心是仏と示す》」。)


仏は覚者という意味である。汝は今、見聞覚知できる力をことごとく具えている。

(仏是覚義、汝今悉具見聞覚知之性《仏は是れ覚の義なり、汝今、見聞覚知の性を悉具せり》。)


この力はよく眉を揚げたり目を瞬シバタタかせ、言ったり来たりいろいろなはたらきをする。

(此性善能揚眉瞬目、去来運用《此の性善能ヨクく揚眉瞬目ヨウビシュンモクし、去来運用コライウンヨウす》。)


この力は身体の中に行き渡り、頭に触れれば頭を知り、足に触れれば足を知る、(徧於身中、桎頭頭知、桎脚脚地《身中に徧アマネく、頭に桎るれば頭知り、脚に桎るれば脚知る》、)


だから正遍知ショウヘンチ(正しく行き渡っている知)と名付ける。

これを離れて外に、決して別の仏はない。

(故名正遍知。離此之外、更無別仏《故に正遍知ショウヘンチと名づく。此れを離れて外、更に別の仏無し》。)


この身体は生まれたり滅んだりするものであるが、心性は無限に遠い過去以来、いまだかつて生まれることも滅びることもない。

(此身即有生滅、心性無始以来、未曾生滅《此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、いまだ曾て生滅せず》。)


身体が生まれたり滅んだりするのは、竜が骨を換えるように、蛇が脱皮し、人が古い家から出ていくのに似ている。

(身生滅者、如竜換骨、似蛇脱皮、人出故宅《身生滅するとは、竜の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり》。)


この身体は無常であるが、その中にある神性は常住である。

(即身是無常、其性常也。)


南方の知識が説く所は概略このようなものです」と答えた。

(南方所説、大約如是《即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の説く所、大約是の如し》」。)



                         合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

後半正3-14-2②『第三仏性』第十四段その2②〔妄想してはならない〕

  〔聞書私訳〕 /「師曰、『莫妄想』、この宗旨は作麼生なるべきぞ」とある。「莫妄想」という言葉は、「両頭」にも付かずく、また、仏性にも付かず、ただ「莫妄想」ということであると理解するのである。例えば、実相を実相と言うほどのことである。諸法 〈森羅万象〉 を実相 〈真実の姿〉 と言うのではない。 /私 (詮慧和尚) は言う、「その意は、『莫妄想』の言葉を再び挙げるのである。『作麼生』の『宗旨』は『莫妄想』であるから、『妄想することなかれ』と言うのである」。 /私は言う、「『妄想すること莫れ』とは、『莫妄想』を『莫妄想』と道得することである」。 /私は言う、「『莫妄想』を回避する『両頭』はなく、『俱動』はなく、『仏性』はない。『ただ仏性は妄想なしといふか』である」。 /「莫妄想」とは、「説似一物即不中《一物に似せて説くも即ち中 アタ らず》」というのと同じことである。 /「動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか」とある。 /私は言う、「『動ずればさらにに仏性一枚をかさぬべし』という『一枚』は、『動』のほかに、『仏性』をもう『一枚』加えよと言うのではない。『仏性は一枚』であるから、『動』も『一枚』であるというのである。そのわけは、『動』に『動』を重ねるのを『仏性』の『一枚』と言い、『一枚』から『一枚』を減らすのを『動』の『俱』と言うのであるから、『動取』の半枚を破ぶるなら、『仏性』の『一枚』を破るというのである」。 〔『正法眼蔵』私訳〕 師の長沙は言う、「莫妄想」。 (師いはく、「莫妄想 マクモウゾウ 」。) この主旨は、どういうことか。妄想してはならない、と言うのである。 (この宗旨は、作麼生 ソモサン なるべきぞ。妄想すること莫 ナカ れ、といふなり。) それなら、両頭が俱に動くけれども妄想はない、妄想ではないと言うのか、それとも、ただ仏性には妄想はないと言うのか。 (しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。) 〔これは理の響くところを、試験されるのだ。〕 長沙は仏性のことは少しも言わず、両頭のことも少しも言わず、ただ「妄想なし」と言うのかとも、参じてみよ。 (仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するかとも参究すべし...

後半正3『第三仏性』全十四段の総まとめ 完了

  ◯第八段 斉安 セイアン 国師いはく、「一切衆生有仏性」。 斉安国師は言う、「一切の衆生は有であり仏性である。」 ◯第九段 大 潙 山 ダイイサン 大円 ダイエン 禅師いはく、「一切衆生無仏性」。 大 潙 山の大円禅師は言う、「一切の衆生は無であり仏性である」。    ◯第十段 百丈山 ヒャクジョウサン 大智禅師いはく、「仏はこれ最上乗なり、これ上々智なり、これ仏道立此人 リッシニン なり」 百丈山の大智禅師は言う、「仏は最上の乗り物である、比較するものがない智慧である、仏道によって生きている人である」。 ◯第十一段 黄檗 オウバク いはく、「十二時中一物にも依倚 エイ せずして始得 シトク ならん」 黄檗は言う、「四六時中何ものにも寄りかからなければ、初めて仏性を明らかに見ることができるのだ」。 ◯第十二段 趙州 ジョウシュウ いはく、「無」。 趙州は言う、〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「無」と言った。 ◯第十三段 趙州いはく、「有」。 〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「有」と言った。 ◯第十四段 ・長沙 チョウサ 和尚いはく、「莫妄想 マクモウソウ 」。 〔ミミズが切られて二つとなり、二つとも動いています。さて、仏性はどちらにあるのでしょうかと問われた時、〕長沙和尚は、「妄想することなかれ」と言った。 ・道元禅師いはく、 「 向上に道取するとき、作麼生 ソモサン ならんかこれ仏性。また委悉 イシツ すや。三頭八臂 サンズハッピ 」。 道元禅師は言う、「 一歩進めて言うと、どんなものもみな仏性である。さらに委しく言うなら、仏性は頭が三つで臂 ヒジ が八本である。百千万境の一々が仏性、一段も両段も、散も未散も、暫時も不暫時も、一つとして仏性でないものはないのだ」。                      合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村