〔『正法眼蔵』原文〕
万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫リャッコウに常住なり。
いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。
たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没ソンモツするがゆゑに。
明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。
また真我と称じ、覚元カクゲンといひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。
これよりのちは、さらに生死に流転ルテンせず、不生不滅の性海ショウカイに証入するなり。
このほかは真実にあらず。
この性あらはさゞるほど、三界六道は競起キョウキするといふなり。
これすなはち先尼外道センニゲドウが見なり。
〔抄私訳〕
「西天竺国に外道あり、先尼となづく。」といって、先尼外道(固定不変の実体我を認め、霊性の常住性をもとに、「心常相滅」を説く者)の考え方を挙げられる。
文の通り理解すべきであるが、この考え方は、本当によく知り従ってはならないものである。大事な点が多いので外道の考え方を略述するのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
あらゆるものや諸々の外境がどのように変化しても、霊知は外境と一緒にはならず、物と同じではなく、長い時間を経ても常住である。
(万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず。歴劫リャッコウに常住なり。)
今現れている諸々の外境も、霊知の在る所であれば、真実と言うことができる。(いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。)
本性から縁起したからには真実の存在である。
(本性より縁起せるゆえには実法なり。)
たとえそうであっても、霊知のように常住ではない、現れたり消えたりするからである。
(たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没ソンモツするがゆえに。)
明暗に左右されない、霊によって知るからである。これを霊知と言う。
(明暗にかかはれず、霊知するがゆえに。これを霊知といふ。)
また、真我と呼び、覚りの本源と言い、本性と呼び、本体と呼ぶ。
(また真我と称じ、覚元といひ、本性と称じ、本体と称ず。)
このような本性を悟ることを常住に帰ったと言い、真実に帰った菩薩と言う。
(かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。)
これから後は、もはや生死に流転せず、生れることも滅することもない本性の悟りの世界に入るのである。
(これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。)
この外は真実ではない。この本性を現わさない限り、三界(衆生が流転する三つの迷いの世界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)は競い起こると言うのである。
(このほかは真実にあらず。この性あらはさゞるほど、三界六道は競起するといふなり。)
コメント
コメントを投稿