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正5-2-2『第五即心是仏』 第二段② 霊知は境とともならず

 

〔『正法眼蔵』原文〕

万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫リャッコウに常住なり。


いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。


たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没ソンモツするがゆゑに。

明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。


また真我と称じ、覚元カクゲンといひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。


これよりのちは、さらに生死に流転ルテンせず、不生不滅の性海ショウカイに証入するなり。


このほかは真実にあらず。


この性あらはさゞるほど、三界六道は競起キョウキするといふなり。


これすなはち先尼外道センニゲドウが見なり。



〔抄私訳〕

「西天竺国に外道あり、先尼となづく。」といって、先尼外道固定不変の実体我を認め、霊性の常住性をもとに、「心常相滅」を説く者の考え方を挙げられる。

文の通り理解すべきであるが、この考え方は、本当によく知り従ってはならないものである。大事な点が多いので外道の考え方を略述するのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

あらゆるものや諸々の外境がどのように変化しても、霊知は外境と一緒にはならず、物と同じではなく、長い時間を経ても常住である。

(万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず。歴劫リャッコウに常住なり。)


今現れている諸々の外境も、霊知の在る所であれば、真実と言うことができる。(いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。)


本性から縁起したからには真実の存在である。

(本性より縁起せるゆえには実法なり。)


たとえそうであっても、霊知のように常住ではない、現れたり消えたりするからである。

(たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没ソンモツするがゆえに。)


明暗に左右されない、霊によって知るからである。これを霊知と言う。

(明暗にかかはれず、霊知するがゆえに。これを霊知といふ。)


また、真我と呼び、覚りの本源と言い、本性と呼び、本体と呼ぶ。

(また真我と称じ、覚元といひ、本性と称じ、本体と称ず。)


このような本性を悟ることを常住に帰ったと言い、真実に帰った菩薩と言う。

(かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。)


これから後は、もはや生死に流転せず、生れることも滅することもない本性の悟りの世界に入るのである。

(これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。)


この外は真実ではない。この本性を現わさない限り、三界(衆生が流転する三つの迷いの世界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)は競い起こると言うのである。

(このほかは真実にあらず。この性あらはさゞるほど、三界六道は競起するといふなり。)


これが、先尼外道の考え方である。
(これすなはち先尼外道が見なり。)





                         合掌


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