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正5-1-2『第五即心是仏』第一段②〔西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり:インドには即心是仏の語はなく、シナで初めて聞くようになった〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

しかあるを、西天サイテンには即心是仏なし、震旦シンタンにはじめてきけり。



〔抄私訳〕

「西天」(インド)は梵語ボンゴ(古代インド語)であり、「即心是仏」の言葉は「西天」ではまだ聞かれず、「震旦シンタン(シナ)で初めて聞けた。馬祖大寂禅師が、多くの雲水等に示す言葉の中で、「即心是仏」と言ったので、これを指して、「震旦にはじめてきけり」と言うのである。


ただし、これも一筋にこれのみだと思ってはならない。「即心是仏」の道理が、「西天」になくて、「震旦」にあるというのもおかしい。「即心是仏」について、どうして場所を差別するのか、「達磨は東土(シナ)に来ず、二祖は西天に往かず」といったことと合わせて理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/「仏々祖々、いまだまぬかれず保任ホニンしきたれるは、即心是仏のみなりあらゆる仏祖が、片時も離れることなくちゃんとそういう生活をしてきたのは、自分の今こういう風にある様子だけである。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦シンタンにはじめてきけり。」と言う。


「西天」(インド)に「即心是仏」がなかったら、「仏々祖々」はどのようにして「保任」することができよう。また、「保任」しない「仏祖」などいない。「仏祖」がいなければ「震旦」(シナ)に伝わるはずはなく、首尾不相応に思われる。ところが、後に、「仏祖の保任する即心是仏は外道二乗のゆめにも見る所に非ず、唯仏祖与仏祖のみ即心是仏し来たり、究尽し来たり、聞著あり。」と言う、これを「仏々祖々保任し来たる」とも言う。


「震旦」で初めて聞いたという意味合いは、「仏祖」が初めて「東土」に出現したと言うようなことである。結局、「西天」の「なし」は「即心」であり、「震旦」の「はじめてきけり」は「是仏」であるとも理解できる。


ここでは、「達磨不来東土、二祖不往西天」(達磨はシナに来ず、二祖はインドに往かず)の言葉も、「釈迦未だ成仏せず、弥勒ミロク(釈迦の後の未来の仏)已に成仏す」という言葉も合わせて理解すべきである。払子ホッスをあげて、「西天のみでなく、震旦にも無し」と答えた意味合いもあるのである。


「西天」には「即心是仏」の言葉が無いからといって、劣っているというのではない。「即心是仏」と「西天」で言って来たから、教学でもこの道理を説いてきたのである。「即心是仏」はまだ諸教(禅宗以外の教え)で説く所ではない。これを「西天には即心是仏なし」と言う、我が宗門で説いて来ただけである。格別に、「即」の字と「是」の字に、差別や勝劣の意味があるわけではない。



〔『正法眼蔵』私訳〕

ところが、インドには即心是仏の語はなく、シナで初めて聞くようになった。

(しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦シンタンにはじめてきけり。)




                         合掌


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