スキップしてメイン コンテンツに移動

正4-12-2 『第四身心学道』第十二段②〔いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる:まだ生を捨てていないのに、今既に死を見る、〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

ゆゑいかむとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。


いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。


生は死を罣礙ケイゲするにあらず、死は生を罣礙するにあらず、


生死とも凡夫のしるところにあらず。



〔抄私訳〕

「いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる」とは、一般に理解されるであろうが、「いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」ということは、とても理解できない。ところが、この生が死であり、この死が生であるという道理がこのように言われるのである。生死が、もともと二つのものが相対していないから、全機〈すべての働き〉生が死とも言われ、全機の死の上で生とも言われる理をこのように言うのである。


「生は死を罣礙するにあらず、死は生を罣礙するにあらず」とは、生の独立の姿、死の独立の姿をしばらくこのように言うのである。前には生が死、死が生である道理を説かれ、今は生は生、死は死であり、一法(ひとつのもの)が究め尽す理を明らかにされるのである。表現を替えたようだけれどもただ同じ意である。これらの道理は、確かに凡夫が説く所ではない。



〔『正法眼蔵』私訳〕

時々刻々に変化する様子〈生死〉を怖れる必要がないのは何故かといえば、まだ先程見ていた様子〈死〉を捨てていないのに、今既に今見ている様子〈生〉を見る、まだ今見ている様子〈死〉を捨てていないのに、今既に次に見る様子〈生〉を見る、という風になっているからである。

(ゆゑいかむとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。)

〔私たちの日常生活は朝から晩までこのようになっています。例えば、眼を右の方から左の方に動かすと、先程の様子をまだ捨てていないのに今の様子が出てきます、今の様子をまだ捨てていないのに次の様子が出てきます。入れ替わる気配はどこにもありません。今見えている様子がずっとあるだけです。私たちの身心は一日中、「いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」というように活動しているのです。この在り様に学ぶのが身心学道です。〕


先程見ていた様子〈生〉は今見ている様子〈死〉を邪魔せず、今見ている様子〈死〉は次に見る様子〈生〉を邪魔しない。

しかし、このように時々刻々変化している生死の実物の様子は、生と死を分けて見る捉え方に固執している人たちは気付くことができないものである。

(生は死を罣礙ケイケするにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。)



                         合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

後半正3-14-2②『第三仏性』第十四段その2②〔妄想してはならない〕

  〔聞書私訳〕 /「師曰、『莫妄想』、この宗旨は作麼生なるべきぞ」とある。「莫妄想」という言葉は、「両頭」にも付かずく、また、仏性にも付かず、ただ「莫妄想」ということであると理解するのである。例えば、実相を実相と言うほどのことである。諸法 〈森羅万象〉 を実相 〈真実の姿〉 と言うのではない。 /私 (詮慧和尚) は言う、「その意は、『莫妄想』の言葉を再び挙げるのである。『作麼生』の『宗旨』は『莫妄想』であるから、『妄想することなかれ』と言うのである」。 /私は言う、「『妄想すること莫れ』とは、『莫妄想』を『莫妄想』と道得することである」。 /私は言う、「『莫妄想』を回避する『両頭』はなく、『俱動』はなく、『仏性』はない。『ただ仏性は妄想なしといふか』である」。 /「莫妄想」とは、「説似一物即不中《一物に似せて説くも即ち中 アタ らず》」というのと同じことである。 /「動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか」とある。 /私は言う、「『動ずればさらにに仏性一枚をかさぬべし』という『一枚』は、『動』のほかに、『仏性』をもう『一枚』加えよと言うのではない。『仏性は一枚』であるから、『動』も『一枚』であるというのである。そのわけは、『動』に『動』を重ねるのを『仏性』の『一枚』と言い、『一枚』から『一枚』を減らすのを『動』の『俱』と言うのであるから、『動取』の半枚を破ぶるなら、『仏性』の『一枚』を破るというのである」。 〔『正法眼蔵』私訳〕 師の長沙は言う、「莫妄想」。 (師いはく、「莫妄想 マクモウゾウ 」。) この主旨は、どういうことか。妄想してはならない、と言うのである。 (この宗旨は、作麼生 ソモサン なるべきぞ。妄想すること莫 ナカ れ、といふなり。) それなら、両頭が俱に動くけれども妄想はない、妄想ではないと言うのか、それとも、ただ仏性には妄想はないと言うのか。 (しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。) 〔これは理の響くところを、試験されるのだ。〕 長沙は仏性のことは少しも言わず、両頭のことも少しも言わず、ただ「妄想なし」と言うのかとも、参じてみよ。 (仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するかとも参究すべし...

後半正3『第三仏性』全十四段の総まとめ 完了

  ◯第八段 斉安 セイアン 国師いはく、「一切衆生有仏性」。 斉安国師は言う、「一切の衆生は有であり仏性である。」 ◯第九段 大 潙 山 ダイイサン 大円 ダイエン 禅師いはく、「一切衆生無仏性」。 大 潙 山の大円禅師は言う、「一切の衆生は無であり仏性である」。    ◯第十段 百丈山 ヒャクジョウサン 大智禅師いはく、「仏はこれ最上乗なり、これ上々智なり、これ仏道立此人 リッシニン なり」 百丈山の大智禅師は言う、「仏は最上の乗り物である、比較するものがない智慧である、仏道によって生きている人である」。 ◯第十一段 黄檗 オウバク いはく、「十二時中一物にも依倚 エイ せずして始得 シトク ならん」 黄檗は言う、「四六時中何ものにも寄りかからなければ、初めて仏性を明らかに見ることができるのだ」。 ◯第十二段 趙州 ジョウシュウ いはく、「無」。 趙州は言う、〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「無」と言った。 ◯第十三段 趙州いはく、「有」。 〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「有」と言った。 ◯第十四段 ・長沙 チョウサ 和尚いはく、「莫妄想 マクモウソウ 」。 〔ミミズが切られて二つとなり、二つとも動いています。さて、仏性はどちらにあるのでしょうかと問われた時、〕長沙和尚は、「妄想することなかれ」と言った。 ・道元禅師いはく、 「 向上に道取するとき、作麼生 ソモサン ならんかこれ仏性。また委悉 イシツ すや。三頭八臂 サンズハッピ 」。 道元禅師は言う、「 一歩進めて言うと、どんなものもみな仏性である。さらに委しく言うなら、仏性は頭が三つで臂 ヒジ が八本である。百千万境の一々が仏性、一段も両段も、散も未散も、暫時も不暫時も、一つとして仏性でないものはないのだ」。                      合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村