〔『正法眼蔵』原文〕
ゆゑいかむとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。
いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。
生は死を罣礙ケイゲするにあらず、死は生を罣礙するにあらず、
生死とも凡夫のしるところにあらず。
〔抄私訳〕
「いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる」とは、一般に理解されるであろうが、「いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」ということは、とても理解できない。ところが、この生が死であり、この死が生であるという道理がこのように言われるのである。生死が、もともと二つのものが相対していないから、全機〈すべての働き〉生が死とも言われ、全機の死の上で生とも言われる理をこのように言うのである。
「生は死を罣礙するにあらず、死は生を罣礙するにあらず」とは、生の独立の姿、死の独立の姿をしばらくこのように言うのである。前には生が死、死が生である道理を説かれ、今は生は生、死は死であり、一法(ひとつのもの)が究め尽す理を明らかにされるのである。表現を替えたようだけれどもただ同じ意である。これらの道理は、確かに凡夫が説く所ではない。
〔『正法眼蔵』私訳〕
時々刻々に変化する様子〈生死〉を怖れる必要がないのは何故かといえば、まだ先程見ていた様子〈死〉を捨てていないのに、今既に今見ている様子〈生〉を見る、まだ今見ている様子〈死〉を捨てていないのに、今既に次に見る様子〈生〉を見る、という風になっているからである。
(ゆゑいかむとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。)
〔私たちの日常生活は朝から晩までこのようになっています。例えば、眼を右の方から左の方に動かすと、先程の様子をまだ捨てていないのに今の様子が出てきます、今の様子をまだ捨てていないのに次の様子が出てきます。入れ替わる気配はどこにもありません。今見えている様子がずっとあるだけです。私たちの身心は一日中、「いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」というように活動しているのです。この在り様に学ぶのが身心学道です。〕
先程見ていた様子〈生〉は今見ている様子〈死〉を邪魔せず、今見ている様子〈死〉は次に見る様子〈生〉を邪魔しない。
しかし、このように時々刻々変化している生死の実物の様子は、生と死を分けて見る捉え方に固執している人たちは気付くことができないものである。
(生は死を罣礙ケイケするにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。)
合掌
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