〔『正法眼蔵』原文〕
語等なり、心等なり、法等なり。
〔抄私訳〕
「法」(一切のもの)も、「語」(言葉)も、「心」も、これほどの意味であり、等しいという意であり、みな平等の道理である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
言葉も正等覚〈釈尊が悟られたと同じ内容〉であり、心〈今の様子〉も正等覚であり、法〈現象〉も正等覚である。
(語等なり、心等なり、法等なり。)
〔『正法眼蔵』原文〕
寿行生滅ジュギョウショウメツの刹那セツナに生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず。
しらざれども、発心ホッシンすればかならず菩提の道にすすむなり。
〔抄私訳〕
本当に、我々が時々刻々に、生より死に移されるまで刹那に生滅する姿、転がされていく様子は、総じて気づかず知らない。最後身(仏に一歩手前の菩薩)の外はこれを知らないのである。「しらざれども、発心すればかならず菩提(悟りの境地)の道にすすむなり」、これを疑ってはならない。
〔『正法眼蔵』私訳〕
我々の寿命は、生より死に移されるまで刹那に生滅しているけれども、我々は今の身心の様子〈最後身〉しか知らない。
(寿行生滅ジュギョウショウメツの刹那セツナに生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず。)
知らなくても、道を求める志を持てばかならず道を求める道に進むのである。
(しらざれども、発心すればかならず菩提の道にすすむなり。)
〔『正法眼蔵』原文〕
すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。
すでにあやしむことあり、すなはち平常ビョウジョウなり。
〔抄私訳〕
これはすでにこの道理があるのであるから、疑ってはならない。たとえ怪しむことがあっても、この怪しむ心が、とりも直さず「平常心」であるというのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
人はみな道を求める道の中にいるから、決してそのことを怪しんではならない。(すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。)
私は道を求める道の中にいないと怪しむことがあっても、その怪しむことが平生の在り様なのである。
(すでにあやしむことあり、すなはち平常ビョウジョウなり。)
合掌
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