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正4-11-3『第四身心学道』 第十一段③〔礼拝問訊する、すなはち動止威儀なり:礼拝したり挨拶したりする、それが動いたり止まったりする威儀である〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

礼拝問訊ライハイモンジンする、すなはち動止威儀なり。


枯木コボクを画図ガズし、死灰シカイを磨甎マセンす。


しばらくの間断あらず。



〔抄私訳〕

「礼拝問訊する」姿を「動止威儀」(立ち居振る舞い)と言うのであり、この姿がすなわち学道(道を学ぶこと)である。「枯木」「死灰」は、二乗等の考えで理解せず、外道の邪見と同じものとしてはいけない。今は、「枯木」でその理を表し、「死灰」で尽十方界の道理の及ぶ所が、「しばらくの間断あらず」と言われるのである。「死灰」とは、冷めた灰であり、役に立たない物と思われがちなものである。


〔聞書私訳〕

/「枯木を画図し、死灰を磨甎す」と言う。

「画図」という言葉は、たとえば花が咲くというほどの言葉である。二乗の成仏は、枯れた木に花が咲くほどのことである。「磨甎マセン(瓦を磨く)は、暖かな肉体と「死灰」を体達(諸法実相の当体を究め尽くすこと)するのである。「磨甎」のところに作鏡(鏡になる)の道理が現れるようなものであり、「画図」ということは、この宗門の言葉によく使われている。


三世の諸仏を「図」とも使う。そのわけは、「画図」とは諸法〈今現前するもの〉の姿を映すことを「画図」と言う。「画図」に入るなどと使うのも、この意である。


諸々のすがたは仏体でないものはない。「磨甎作鏡」などということも、研いだ後に、鏡となるのではない。そのまま「磨甎」のところに、作鏡はあると前にも述べたように、今もこの意である。欲知(知ろうと欲す)のところを仏性とも言い、菩提心を発と指すほどの意である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

礼拝したり挨拶したりする、それが取りも直さず動いたり止まったりする威儀

〈こうやったら必ずこうなる様子、その時だけの一つの様子〉である。

(礼拝問訊ライハイモンジンする、すなはち動止威儀なり。)


〔体の上に同時に二つの様子が出てくることは決してありません。威儀というものはそんな風にきちっと整っているのです。これから整うのではなく、こうやったら必ずこうなるのです。その時の様子だけでみんな終わっているのです。こんな風にこの身心は毎日生活しているのです。そうなっているのに、人間は記憶力で過去のことを引っ張り出してきて問題を作り出し悩んだりします。実物の生活は、良かろうが悪かろうが、気に入ろうが気に入るまいが、その時にきちっと済んでいく。修行する時には、こっちに学ぶのです。〕


枯木を絵に画き、燃え尽きた灰を磨く。(枯木を画図し、死灰を磨甎マセンす。)

〔みな、人間の常識外の在り様です。〕


朝からずっと今まで片時も隙間があいたような過ごし方をしたことはないのである。

(しばらくの間断あらず。)



                          合掌



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