〔『正法眼蔵』原文〕 生死去来 ショウジコライ 真実人体 ニンタイ といふは、 いはゆる生死は凡夫の流転 ルデン なりといへども、大聖 ダイショウ の所脱なり。 超凡越聖 チョウボンオッショウ せん、これを真実体とするのみにあらず。 これに二種七種のしなあれど、究尽 グウジン するに、 面々みな生死なるゆえに恐怖 クフ すべきにあらず。 〔抄私訳〕 一般には、「生死」とは、「凡夫」が「流転」する所と見て、この地で死に彼の地に生まれるとのみ思っている。これを今は、尽十方界真実人体 〈尽十方世界であるこの真実の身体) の上での生死は、全機 〈すべての働き〉 の生、全機の死であるために、「大聖の所脱なり」 〈仏菩薩が解脱するところである〉 と言われるのである。 この理が又、「超凡越聖」 (凡を超え聖を越える) とも言われるのである。 また、「真実体」 〈真実の身体〉 だけではなく、「二種七種」の「生死」があり、いろいろであるが、尽十世界と究尽する時、「面々」とは、「二種七種」の「生死」の事である。みな、全機の生死であるから、「恐怖」すべき「生死」ではないと言うのである。 七種の生死とは、 分段生死 (生と死を分けて見る捉え方) 変易 ヘンヤク 生死 (時々刻々変化していると見る生死の捉え方) 《この二つを二種の生死と言う》 流 ル 出生死 《真に迷う始めである》 返出生死 《妄に背く始め》 因縁生死 《法性を因とし無明を縁とする》 有後生死 《等覚の位に属する》 無後生死 《妙覚の位に属する》 この五つの生死を加えて七種の生死と言うのである。 〔聞書私訳〕 /「生死去来 ショウジコライ 真実人体 ニンタイ といふは、いはゆる生死は凡夫の流転 ルデン なりといへども、大聖 ダイショウ の所脱なり。超凡越聖 チョウボンオッショウ せん、これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれど、究尽 グウジン するに、面々みな生死なるゆえに恐怖 クフ すべきにあらず。」と言う。 「恐怖しない」とは、全機の「生死」であるからである。生も全 機 であり、死も全であるからは、何が何を恐れるのか。また、今生の生は尽きるようであっても、また生に移るので、次の生に移るのに何を恐れるのか。この生よりも、良い生に移ることもある。 仏