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正4-12-1『第四身心学道』第十二段①〔生死去来真実人体:生まれ変わり死に変わり、こなたより去りかなたより来たるこの凡夫の身が、如来の法身に他ならない〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 生死去来 ショウジコライ 真実人体 ニンタイ といふは、 いはゆる生死は凡夫の流転 ルデン なりといへども、大聖 ダイショウ の所脱なり。 超凡越聖 チョウボンオッショウ せん、これを真実体とするのみにあらず。 これに二種七種のしなあれど、究尽 グウジン するに、 面々みな生死なるゆえに恐怖 クフ すべきにあらず。 〔抄私訳〕 一般には、「生死」とは、「凡夫」が「流転」する所と見て、この地で死に彼の地に生まれるとのみ思っている。これを今は、尽十方界真実人体 〈尽十方世界であるこの真実の身体) の上での生死は、全機 〈すべての働き〉 の生、全機の死であるために、「大聖の所脱なり」 〈仏菩薩が解脱するところである〉 と言われるのである。         この理が又、「超凡越聖」 (凡を超え聖を越える) とも言われるのである。       また、「真実体」 〈真実の身体〉 だけではなく、「二種七種」の「生死」があり、いろいろであるが、尽十世界と究尽する時、「面々」とは、「二種七種」の「生死」の事である。みな、全機の生死であるから、「恐怖」すべき「生死」ではないと言うのである。 七種の生死とは、 分段生死 (生と死を分けて見る捉え方) 変易 ヘンヤク 生死 (時々刻々変化していると見る生死の捉え方) 《この二つを二種の生死と言う》   流 ル 出生死 《真に迷う始めである》 返出生死 《妄に背く始め》 因縁生死 《法性を因とし無明を縁とする》 有後生死 《等覚の位に属する》 無後生死 《妙覚の位に属する》 この五つの生死を加えて七種の生死と言うのである。 〔聞書私訳〕 /「生死去来 ショウジコライ 真実人体 ニンタイ といふは、いはゆる生死は凡夫の流転 ルデン なりといへども、大聖 ダイショウ の所脱なり。超凡越聖 チョウボンオッショウ せん、これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれど、究尽 グウジン するに、面々みな生死なるゆえに恐怖 クフ すべきにあらず。」と言う。 「恐怖しない」とは、全機の「生死」であるからである。生も全 機 であり、死も全であるからは、何が何を恐れるのか。また、今生の生は尽きるようであっても、また生に移るので、次の生に移るのに何を恐れるのか。この生よりも、良い生に移ることもある。 仏

正4-11-4 『第四身心学道』第十一段④〔暦日は短促なりといへども、学道は幽遠なり:光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、本当の在り様を学ぶことは奥深くて永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 暦日 レキジツ は短促 タンソク なりといへども、学道は幽遠 ユウオン なり。 捨家出家せる風流たとひ粛然 シュクゼン なりとも、樵夫 ショウフ に混同することなかれ。 活計 カッケイ たとひ競頭 キョウトウ すとも、佃戸 デンコ に一斉 イッセイ なるにあらず。 迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際 キワ にとどむることなかれ。 〔抄私訳〕 実に、日夜の光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、学道は奥深くて永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである。「捨家出家」の姿が、たとえ物寂しくあっても、「樵夫」 (きこり) が、山に入り山を出る姿と同じだとしてはならないというのである。 「活計たとひ競頭すとも、佃戸に一斉なるにあらず」とは、「活計」とは、問訊 (挨拶) ・礼拝・坐禅弁道の姿を指すが、「佃戸」 (小作人) と同じだとしてはならないというのである。佃戸とは、卑しい民のことである。だから、「迷悟善悪の論と比することなかれ」というのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 光陰はあっという間に過ぎゆくように見えるけれども、本当の在り様を学ぶことは奥深く永遠であり時間の短さ速さに関わらないのである。 (暦日 レキジツ は短促 タンソク なりといへども、学道は幽遠 ユウオン なり。)   家を捨て出家した生きざまがたとえひっそりとして物悲しくても、樵夫 (きこり) と混同してはならない 。 (捨家出家せる風流たとひ粛然 ユウゼン なりとも、樵夫 ショウフ に混同することなかれ。) 暮らし向きの苦労が次々と起るといっても、貧しい小作農家と同じであるということではない。 (活計 カッケイ たとひ競頭 キョウトウ すとも、佃戸 デンコ に一斉 イッセイ なるにあらず。) 〔あらゆる学道の苦労は仏行である。〕 迷か悟か善か悪かの論と比べてはならない、邪が正か真か偽かのほとりに留まっていてはならないのである。 (迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際 キワ にとどむることなかれ。)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

正4-11-3『第四身心学道』 第十一段③〔礼拝問訊する、すなはち動止威儀なり:礼拝したり挨拶したりする、それが動いたり止まったりする威儀である〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 礼拝問訊 ライハイモンジン する、すなはち動止威儀なり。 枯木 コボク を画図 ガズ し、死灰 シカイ を磨甎 マセン す。 しばらくの間断あらず。 〔抄私訳〕 「礼拝問訊する」姿を「動止威儀」 (立ち居振る舞い) と言うのであり、この姿がすなわち学道 (道を学ぶこと) である。「枯木」「死灰」は、二乗等の考えで理解せず、外道の邪見と同じものとしてはいけない。今は、「枯木」でその理を表し、「死灰」で尽十方界の道理の及ぶ所が、「しばらくの間断あらず」と言われるのである。「死灰」とは、冷めた灰であり、役に立たない物と思われがちなものである。 〔聞書私訳〕 /「枯木を画図し、死灰を磨甎す」と言う。 「画図」という言葉は、たとえば花が咲くというほどの言葉である。二乗の成仏は、枯れた木に花が咲くほどのことである。「磨甎 マセン 」 (瓦を磨く) は、暖かな肉体と「死灰」を体達 (諸法実相の当体を究め尽くすこと) するのである。 「磨甎」のところに作鏡 (鏡になる) の道理が現れるようなものであり、「画図」ということは、この宗門の言葉によく使われている。 三世の諸仏を「図」とも使う。そのわけは、「画図」とは諸法 〈今現前するもの〉 の姿を映すことを「画図」と言う。「画図」に入るなどと使うのも、この意である。 諸々のすがたは仏体でないものはない。「磨甎作鏡」などということも、研いだ後に、鏡となるのではない。そのまま「磨甎」のところに、作鏡はあると前にも述べたように、今もこの意である。欲知 (知ろうと欲す) のところを仏性とも言い、菩提心を発と指すほどの意である。 〔『正法眼蔵』私訳〕 礼拝したり挨拶したりする、 それが取りも直さず動いたり止まったりする 威儀 〈こうやったら必ずこうなる様子、その時だけの一つの様子〉 である。 (礼拝問訊 ライハイモンジン する、すなはち動止威儀なり。) 〔体の上に同時に二つの様子が出てくることは決してありません。威儀というものはそんな風にきちっと整っているのです。これから整うのではなく、こうやったら必ずこうなるのです。その時の様子だけでみんな終わっているのです。こんな風にこの身心は毎日生活しているのです。そうなっているのに、人間は記憶力で過去のことを引っ張り出してきて問題を作り出し悩んだりします。実物の生活は、