スキップしてメイン コンテンツに移動

正4-5-3『第四身心学道』第五段③〔玉をひく力あり、水にいる能あり:隠れている玉を引き出す力があり、泥水に入るはたらきがある〕


〔『正法眼蔵』原文〕

玉をひくちからあり、水にいる能あり。


とくる日あり、くだくるときあり、極微ゴクミにきはまる時あり。


露柱と同参せず、燈籠と交肩コウケンせず。


かくのごとくなるゆえに赤脚走セキキャクソウして学道するなり、

たれか著眼看チャクガンカンせん。


翻筋斗ホンキントして学道するなり、おのおの随他去あり。


このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。



〔抄私訳〕

「玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり。極微にきはまる時あり」というのも、拕泥滞水タデイタイスイ(泥にまみれ水をかぶること)という言葉の潤色(色どりをつけ光沢を添えること)に、これを引き合いに出して説かれたのである。皆心〈今の在り様〉を説く言葉である。


「露柱」とは、あらわである意味である。柱は、壁や垣根や何か物に付いて立つものだが、ただ柱だけがあり、垣根も壁もないのである。

柱が法界(一切の世界)を究尽している姿が、「露柱」とも言えるから、「露柱」と肩を並べる物がない道理によって、「露柱と同参せず」と言われるのである。「燈籠」もただこの意味合いであり、尽界(全世界)が「燈籠」である。


「赤脚走」とは、あらわな心が、隠れる所がない意味で、解脱の意味合いである。「たれか著眼看せん」とは、本当に見る者見られるものがなく、仏法の前では誰が何を見ると言うのかということである。


「翻筋斗」とは、木を斫る道具で頭が重く柄が軽いので、これを投げると翻る意味合いである。これも解脱の言葉であり、そのたび毎に残らない意である。


「随他去」とは、他に随っていくと言い、自他があるようであるが、これは只、心に心が随うほどの意である。


「壁落」とは、壁が独立している意味であり、虚空が地に落ちるほどの意味である。全てが壁であるからには、本当にどこに門が有るだろうか。「無門」はその理由があり、壁の外に余物はないのである。しかし一方で、全てが壁である道理が有門である。


〔聞書私訳〕

/「玉をひく力あり」とは、壁に玉を隠すということで、その因縁である。「水に入る能あり」と言う、《滞水の意であり、壁に対して言う》、「とくる日あり」と言う、《解脱の意味合いである》


/「露柱と同参せず、燈籠トウロウと交肩コウケンせず」とは、垣根や壁を心と説く時、又、別の存在はないから、あらわである所を露柱とも説く。露柱はあらわで隠れないものである。垣根にも壁にも付かないで、あらわに出ている柱を、「露柱」と言うから、「同参せず」と言うのである。「燈籠」も同じで、三界はただ「燈籠」である。「燈籠」は、吊り下げて、物に付かず隠れない物である。


/「無門これ四面を学せしむ」とは、つまるところ、この「無門」は際限がない所を「無門」と言い、出入することがないのである。「四面」というのを、そのまま「無門」と理解するのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

心学道〈今の在り様に道を学ぶことは、

壁に隠れている玉〈本来の自己〉を引き出す力があり、

衆生救済のために泥水に入るはたらきがある。

(玉をひく力あり、水にいる能あり。)


心学道は、解脱する日があり、透脱する時があり、

微細な参究に極まる時がある。

(とくる日あり、くだくるときあり、極微ゴクミにきはまる時あり。)


全世界が露柱である時、露柱と肩を並べる物はなく、

全世界が燈籠である時、燈籠と肩を並べる物はない。

(露柱と同参せず、燈籠と交肩コウケンせず。)


このようであるから、素足で走って道を学ぶのである。

(かくのごとくなるゆえに赤脚走セキキャクソウして学道するなり、)


仏法の前では、見る者見られるものはなく、誰が何を見ると言うのか。

(たれか著眼看チャクガンカンせん。)


もんどり打って、今の在り様に道を学ぶ〈心学道する〉のである。

(翻筋斗ホンキントして学道するなり、)


その時その時、心〈今の在り様〉が心〈今の在り様〉に随うのである。

(おのおの随他去あり。)


このように心学道する〈今の在り様に道を学ぶ時、

虚空が地に落ち十方を学ばせ、

どこにも門が無くあらゆる方面を学ばせるのである。

(このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。)



                               合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

『正法眼蔵』番外編 〔未だ見ぬ次世代のあなたへ〕 

  新年に当たりまして、なぜ『正法眼蔵』読解に挑んでいるのかにつきまして少々述べさせていただきたいと思います。 今日、和暦令和六年、西暦2024年1 月5日、銀河系島宇宙の太陽系地球に生存している約80億人の人間社会は、混迷が深まっているようです。戦火は絶えることなく第三次世界大戦勃発が危惧され、飢餓人口が増え、難民が増え、人権抑圧が増え、精神を病む人が増え、自死者が増え、人間の欲望がとめどなく肥大化し、 自然破壊が深刻化し、災害が激甚化し、分断と対立抗争が深刻化し、 少数者による富の寡占化と多数者の支配が進んでいるようです。 一方、今朝近くの緑に囲まれた小さな公園を歩くと、小鳥たちがさえずり、保育園児たちが保育士さんの声がけ体操を 全身心で 笑顔いっぱいに楽しんでいます!太陽に愛され、オゾン層に守られ、地球環境に育まれ、親と社会に愛育されている生命のはじけるような喜びが、宇宙にまで輝きわたっているかのようです!宇宙も喜んでいるようです、あたかもこれこそ宇宙の存在理由だと言わんばかりに! にもかかわらず、人間社会は混迷の度を深めています。その根底にあるのは、個人のエゴ、集団のエゴ、国家のエゴなど、エゴとエゴの衝突ではないでしょうか。 人間の幸福のために発達してきた科学ですが、一方で混迷を助長している面も見受けられます。また、現代の哲学・宗教が、混迷を緩和する力を発揮できているかと言えば、甚だ疑問です。科学と哲学・宗教が手を携えて混迷を緩和する道を見出し、共に人間社会に働きかける必要があると痛感しています。 私見ですが、原子爆弾投下のような甚大な災難にあいながらも他者を恨まず 前を向いて 日々新たに今を生ききっている、日本人の根底にある縄文以来1万年の精神生活が言語化された『正法眼蔵』は、現代科学と最も親和性の高い宗教書・哲学書ではないかと考えています。例えば、 私とは何か?(脳科学:一切は脳内現象であり、 私という実体はない ) 苦しみとは何か?(医学:緩和ケアー) 物質とは何か?(量子力学:人間の精神作用が物質の現れ方に影響を与える) 宇宙とは何か?(宇宙論:宇宙は多次元だ) 存在とは何か?時間とは何か?(ハイデッガーの『存在と時間』) 人間の実存とは何か?(サルトルの実存主義哲学) 社会とは何か?(レヴィ・ストロースの構造主義) これらの問いの一つ一つを現代科学