〔『正法眼蔵』原文〕
玉をひくちからあり、水にいる能あり。
とくる日あり、くだくるときあり、極微ゴクミにきはまる時あり。
露柱と同参せず、燈籠と交肩コウケンせず。
かくのごとくなるゆえに赤脚走セキキャクソウして学道するなり、
たれか著眼看チャクガンカンせん。
翻筋斗ホンキントして学道するなり、おのおの随他去あり。
このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。
〔抄私訳〕
「玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり。極微にきはまる時あり」というのも、拕泥滞水タデイタイスイ(泥にまみれ水をかぶること)という言葉の潤色(色どりをつけ光沢を添えること)に、これを引き合いに出して説かれたのである。皆心〈今の在り様〉を説く言葉である。
「露柱」とは、あらわである意味である。柱は、壁や垣根や何か物に付いて立つものだが、ただ柱だけがあり、垣根も壁もないのである。
柱が法界(一切の世界)を究尽している姿が、「露柱」とも言えるから、「露柱」と肩を並べる物がない道理によって、「露柱と同参せず」と言われるのである。「燈籠」もただこの意味合いであり、尽界(全世界)が「燈籠」である。
「赤脚走」とは、あらわな心が、隠れる所がない意味で、解脱の意味合いである。「たれか著眼看せん」とは、本当に見る者見られるものがなく、仏法の前では誰が何を見ると言うのかということである。
「翻筋斗」とは、木を斫る道具で頭が重く柄が軽いので、これを投げると翻る意味合いである。これも解脱の言葉であり、そのたび毎に残らない意である。
「随他去」とは、他に随っていくと言い、自他があるようであるが、これは只、心に心が随うほどの意である。
「壁落」とは、壁が独立している意味であり、虚空が地に落ちるほどの意味である。全てが壁であるからには、本当にどこに門が有るだろうか。「無門」はその理由があり、壁の外に余物はないのである。しかし一方で、全てが壁である道理が有門である。
〔聞書私訳〕
/「玉をひく力あり」とは、壁に玉を隠すということで、その因縁である。「水に入る能あり」と言う、《滞水の意であり、壁に対して言う》、「とくる日あり」と言う、《解脱の意味合いである》。
/「露柱と同参せず、燈籠トウロウと交肩コウケンせず」とは、垣根や壁を心と説く時、又、別の存在はないから、あらわである所を露柱とも説く。露柱はあらわで隠れないものである。垣根にも壁にも付かないで、あらわに出ている柱を、「露柱」と言うから、「同参せず」と言うのである。「燈籠」も同じで、三界はただ「燈籠」である。「燈籠」は、吊り下げて、物に付かず隠れない物である。
/「無門これ四面を学せしむ」とは、つまるところ、この「無門」は際限がない所を「無門」と言い、出入することがないのである。「四面」というのを、そのまま「無門」と理解するのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
心学道〈今の在り様に道を学ぶこと〉は、
壁に隠れている玉〈本来の自己〉を引き出す力があり、
衆生救済のために泥水に入るはたらきがある。
(玉をひく力あり、水にいる能あり。)
心学道は、解脱する日があり、透脱する時があり、
微細な参究に極まる時がある。
(とくる日あり、くだくるときあり、極微ゴクミにきはまる時あり。)
全世界が露柱である時、露柱と肩を並べる物はなく、
全世界が燈籠である時、燈籠と肩を並べる物はない。
(露柱と同参せず、燈籠と交肩コウケンせず。)
このようであるから、素足で走って道を学ぶのである。
(かくのごとくなるゆえに赤脚走セキキャクソウして学道するなり、)
仏法の前では、見る者見られるものはなく、誰が何を見ると言うのか。
(たれか著眼看チャクガンカンせん。)
もんどり打って、今の在り様に道を学ぶ〈心学道する〉のである。
(翻筋斗ホンキントして学道するなり、)
その時その時、心〈今の在り様〉が心〈今の在り様〉に随うのである。
(おのおの随他去あり。)
このように心学道する〈今の在り様に道を学ぶ〉時、
虚空が地に落ち十方を学ばせ、
どこにも門が無くあらゆる方面を学ばせるのである。
(このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。)
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿