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正4-5-2『第四身心学道』第五段②〔牆壁瓦礫これ心なり:垣根・壁・瓦・小石は心である〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

学道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫ショウヘキガリャクこれ心シンなり。


さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり。


咸通カンツウ年前につくり、咸通年後にやぶる。


拕泥滞水タデイタイスイなり、無縄自縛ムジョウジバクなり。



〔抄私訳〕

これは、「障壁瓦礫」(垣根・壁・瓦・小石)と言うような時は、ただ「牆壁瓦礫」で、「三界唯心」〈衆生が流転する三種の世界はただ心である)とも言わない、「法界唯心」(一切のものの世界はただ一心である)とも言わないという意である。少なくとも、一つの法(在り様)が独立している意を表そうとする意味合いである。この道理の響く所がまた、「牆壁瓦礫」は「三界唯心」であり、「三界唯心」は「牆壁瓦礫」であるという道理もあるのである。


このように言うからといって、理が違うことはまったくない。この禅門では、この意味合いが一つ一つの言葉に皆具足するのである。問話モンワ(修行者が師家に問うこと)に道得(仏法の道理を説き尽していること)が有るというほどの意である。


「咸カン通年前」「咸通年後」《これは異国の年号である》の言葉が、理解できないようであるが、無始無終という意味合いである。


また、「つくり」「やぶる」という言葉は、「牆壁瓦礫」と言う時、ゆかりのある言葉を取り出されたのであり、破壊や造作等の意ではない。「心」が「やぶる」とも、「つくる」とも言われるのである。今の『身心学道』の巻で、三種の心を、赤肉団シャクニクダンなどと、身の言葉に関連して呼び出されたように、ゆかりのある言葉を皆取り出されて、これによって、仏法の道理を表されるのである。


「無縄自縛」(縄も無いのに自ら縛ること)という言葉は、一般には繋縛の言葉と考える。そのわけは、迷妄の衆生が、三毒(むさぼり、怒り、愚か)五欲(色欲、財欲、飲食欲、睡眠欲、名誉欲)に繋ぎ止められて出離(煩悩の束縛を離れること) の機会を知らないようであるからである。この姿が、「無縄自縛」と言われる。しかし、今は解脱の言葉に理解するのである。「心」の道理は、本当に「無縄」である。この理によってまた「自縛」とも理解できるのである。だから解脱の言葉となるのである。


〔聞書私訳〕

/「牆壁瓦礫これ心なり。さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり」と言う。

このくだりはいかにも心得難い。「牆壁瓦礫」も「心」と説き、「三界」も「唯心」と説く。ただ同じであるように思われるが、今はまた、「三界唯心にあらず」と嫌ったかと思うと、又、「牆壁瓦礫なり」と落着することは不審である。


もっとも、「三界唯心にあらず、法界唯心にあらず」という意味合いは、「三界」を「法界」だなどと言うことは、広い意味である。「牆壁」はその内の一つの存在であるから、「唯心」の内に収まると理解するであろう所を、「あらず、あらず」と挙げて指すのである。


また、「牆壁瓦礫」は「古仏心」という事があるので、返して「牆壁瓦礫」であると言う。これこそ親切であるという道理である。また、仏心が今の「牆壁瓦礫」であると言われる意は、「三界」をも脱落し、「法界」をも透脱するから、同じものとせず、「法界」でもなく、「三界」でもないと言い、「牆壁瓦礫」と独立させる道理があるのである。


/「無縄自縛」とは、縛ると言う時は当然縄があるはずだが、今は「無縄」と使う。これは、「心」とも使い、「かき・かべ」とも使うので、また、具えるものがない所を「無縄」というのは、ただ縛るくらいの意である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

心学道〈今の在り様に道を学ぶこと〉はこのようであるから、牆壁瓦礫(垣根・壁・瓦・小石)は心〈今の在り様〉である。

(学道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫ショウヘキガリャクこれ心なり。)


だから、三界唯心(衆生が流転する三種の世界はただ一心である)という概念でもなく、法界唯心(一切の世界はただ一心である)という概念でもなく、牆壁瓦礫という具体的な存在が心〈今の在り様〉なのである。

(さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり。)


心学道は、無始無終に心がつくり、心がやぶるのである。

(咸通カンツウ年前につくり、咸通年後にやぶる。)


心学道〈今の在り様に道を学ぶこと〉は、衆生救済のために泥にまみれ水をかぶり、縄もないのに自ら縛ることもある。これが解脱である。

(拕泥滞水タデイタイスイなり、無縄自縛ムジョウジバクなり。)



                               合掌



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