〔『正法眼蔵』原文〕
この信受、それ大小有無にあらず。
いまの知家非家チケヒケ、捨家出家シャケシュッケ《家、家に非ずと知りて捨家出家す》の学道、それ大小の量にあらず、遠近オンゴンの量にあらず。
鼻祖鼻末ビソビマツにあまる、向上向下にあまる。
展事テンジあり、七尺八尺なり。投機トウキあり、為自為他なり。
恁麼インモなる、すなはち学道なり。
〔抄私訳〕
「信受」(信じ受持すること)ということは、一般には人と法(もの・こと)を置いて、これがあれを信じると心得るのを、今は「心」を指して「信受」と言うから、これがあれを信じるという事は言えない。この「信受」は、まったく大小有無等ではないのである。
「知家非家、捨家出家」の姿は、まぎれもなく初心であると思われる心を、これを指して今は「心」と言う。だから、「学道」(仏道を学ぶこと)は、「それ大小の量にあらず、遠近の量にあらず」と言うのである。
「鼻祖鼻末にあまる」ということ、祖師はよくこの言葉を使われる。つまるところ、仏祖の上の「鼻祖鼻末」(始まりと終わり)と言うことは、決して普通の見方に拘らず、法界(一切の世界)を尽くしている道理である。「学道」が尽十方界に満ち足りて、余る所なく不足がない意味である。「あまる」といっても多少の意味ではない。心が究尽する道理を、しばらく「あまる」とも不足とも使うのである。
「展事あり、七尺八尺なり。投機あり、為自為他なり」とある。「展事」とは事を展ノべる意味で、委しくするような事を言うのである。上に「知家非家」以下、「鼻祖鼻末」「向上向下」などという言葉を、「展事」とも言うのである。「投機」も同じ事である。仏祖の教え(法)では、元から「機」(学人)を立てず、「投」といっても何を誰が投げるというのか。これもただ心が心を投げ、心が心を展ノべる意味合いである。
「七尺八尺」の言葉が、突然出てきたように思われるが、これも普通の事である。丈尺の長さに拘わってはいけない。「為自為他」、これも自他相対の言葉ではない。「七尺八尺」「為自為他」は、心の上の荘厳(装飾)であるから、「恁麼なる、すなはち学道なり。学道は恁麼なるが故に 」とあるのである。
〔聞書私訳〕
/「知家非家、捨家出家の学道」とは、三界唯一心(三界はただ一心である)と本体に通達することが、「知家非家」なのである。これは必ずしも「心」の「学道」と受け取ってもならないし、「身」の「学道」にも通ずるものがあるのである。
/「鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる」とは、まったく量にかかわらない所を、「あまる」と使う。「七尺八尺」も世間で使う丈数(長さの単位)ではない。
/「投機あり、為自為他なり」とは、「投機」(師の機と学人の機が一致統合すること)とは、機(学人)に入るということである。これは、機に他が入ると聞こえるが、為自(自の為に)という言葉が出てきたので、自他が別々と心得てはならず、全機〈それそのものが何ものとも相対せずに存在していること〉である。仏々の要機・祖々の機要(仏々祖々の最も肝要なこと)と聞くからには、機に迷ってはいけないのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
心学道〈心の在り様を学ぶこと〉の信受(信じ受持すること)は、まったく大小や有無などではない。
(この信受、それ大小有無にあらず。)
〔大小有無、或いは生死去来も、みな心の在り様を学ぶ〈心学道〉日常生活の立ち居振る舞い(造次)である。〕
だから、今の「家の家ではないことを知り、家を捨てて出家する」心学道は、大菩提心・小菩提心等の分量に違いのある心ではなく、初心だから菩提に遠い・後心だから菩提に近いと分量に違いのある心ではない。
(いまの知家非家チケヒケ、捨家出家シャケシュッケの学道、それ大小の量にあらず、遠近オンゴンの量にあらず。)
〔ただ捨家出家して学道することが、心学道をわがものとして大事にすることである。〕
心学道が始終尽十方界に満ち足り、上にも下にも法界を究尽しているのである。(鼻祖鼻末ビソビマツにあまる、向上向下にあまる。)
学人が自己の境地を述べることがあり、師家が学人の進境に応じて教えを垂れることがある。これはみな自己の為であり他己の為である心学道である。その量と言えば七尺八尺で無辺際である。
(展事テンジあり、七尺八尺なり。投機トウキあり、為自為他なり。)
このように、心の在り様に学ぶのが、すなわち心学道なのである。
(恁麼インモなる、すなはち学道なり。)
合掌
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