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正4-5-1『第四身心学道』 第五段①〔知家非家、捨家出家:家は家でないことを知り、家を捨て出家する学道〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

この信受、それ大小有無にあらず。


いまの知家非家チケヒケ、捨家出家シャケシュッケ《家、家に非ずと知りて捨家出家す》の学道、それ大小の量にあらず、遠近オンゴンの量にあらず。


鼻祖鼻末ビソビマツにあまる、向上向下にあまる。


展事テンジあり、七尺八尺なり。投機トウキあり、為自為他なり。


恁麼インモなる、すなはち学道なり。



〔抄私訳〕

「信受」(信じ受持すること)ということは、一般には人と法(もの・こと)を置いて、これがあれを信じると心得るのを、今は「心」を指して「信受」と言うから、これがあれを信じるという事は言えない。この「信受」は、まったく大小有無等ではないのである。


「知家非家、捨家出家」の姿は、まぎれもなく初心であると思われる心を、これを指して今は「心」と言う。だから、「学道」(仏道を学ぶこと)は、「それ大小の量にあらず、遠近の量にあらず」と言うのである。


「鼻祖鼻末にあまる」ということ、祖師はよくこの言葉を使われる。つまるところ、仏祖の上の「鼻祖鼻末」(始まりと終わり)と言うことは、決して普通の見方に拘らず、法界(一切の世界)を尽くしている道理である。「学道」が尽十方界に満ち足りて、余る所なく不足がない意味である。「あまる」といっても多少の意味ではない。心が究尽する道理を、しばらく「あまる」とも不足とも使うのである。


「展事あり、七尺八尺なり。投機あり、為自為他なり」とある。「展事」とは事を展べる意味で、委しくするような事を言うのである。上に「知家非家」以下、「鼻祖鼻末」「向上向下」などという言葉を、「展事」とも言うのである。「投機」も同じ事である。仏祖の教え(法)では、元から「機」(学人)を立てず、「投」といっても何を誰が投げるというのか。これもただ心が心を投げ、心が心を展べる意味合いである。


「七尺八尺」の言葉が、突然出てきたように思われるが、これも普通の事である。丈尺の長さに拘わってはいけない。「為自為他」、これも自他相対の言葉ではない。「七尺八尺」「為自為他」は、心の上の荘厳(装飾)であるから、「恁麼なる、すなはち学道なり。学道は恁麼なるが故に 」とあるのである。


〔聞書私訳〕

/「知家非家、捨家出家の学道」とは、三界唯一心(三界はただ一心である)と本体に通達することが、「知家非家」なのである。これは必ずしも「心」の「学道」と受け取ってもならないし、「身」の「学道」にも通ずるものがあるのである。


/「鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる」とは、まったく量にかかわらない所を、「あまる」と使う。「七尺八尺」も世間で使う丈数(長さの単位)ではない。


/「投機あり、為自為他なり」とは、「投機」(師の機と学人の機が一致統合すること)とは、機(学人)に入るということである。これは、機に他が入ると聞こえるが、為自(自の為に)という言葉が出てきたので、自他が別々と心得てはならず、全機それそのものが何ものとも相対せずに存在していることである。仏々の要機・祖々の機要(仏々祖々の最も肝要なこと)と聞くからには、機に迷ってはいけないのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

心学道〈心の在り様を学ぶこと〉の信受(信じ受持すること)は、まったく大小や有無などではない。

(この信受、それ大小有無にあらず。)

〔大小有無、或いは生死去来も、みな心の在り様を学ぶ〈心学道〉日常生活の立ち居振る舞い(造次)である。〕 


だから、今の「家の家ではないことを知り、家を捨てて出家する」心学道は、大菩提心・小菩提心等の分量に違いのある心ではなく、初心だから菩提に遠い・後心だから菩提に近いと分量に違いのある心ではない。

(いまの知家非家チケヒケ、捨家出家シャケシュッケの学道、それ大小の量にあらず、遠近オンゴンの量にあらず。)

〔ただ捨家出家して学道することが、心学道をわがものとして大事にすることである。〕


心学道が始終尽十方界に満ち足り、上にも下にも法界を究尽しているのである。(鼻祖鼻末ビソビマツにあまる、向上向下にあまる。)


学人が自己の境地を述べることがあり、師家が学人の進境に応じて教えを垂れることがある。これはみな自己の為であり他己の為である心学道である。その量と言えば七尺八尺で無辺際である。

(展事テンジあり、七尺八尺なり。投機トウキあり、為自為他なり。)


このように、心の在り様に学ぶのが、すなわち心学道なのである。

(恁麼インモなる、すなはち学道なり。)



                               合掌



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