〔『正法眼蔵』原文〕
生時は一点を増ずるか、増ぜざるか。
死には一塵イチジンのさるか、さらざるか。
この生死および生死の見、いづれのところにおかんとかする。
向来キョウライはただこれ心の一念二念なり。
一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり。
山河大地等、これ有無にあらざれば、
大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変ぜず。
かくのごとくの心、みづから学道することを慣習するを、心学道といふと決定ケツジョウ信受すべし。
〔抄私訳〕)
生の時は一点を増し、死の時には一塵が去ると一般には心得るであろう。全機〈それそのものが何ものとも相対せずに存在しているはたらき)の生死の上では、生死の考えを、どこに置くべきであろうか。またこの上は、置くという道理もあろう。生を生と納得し、死を死と納得すれば、置くと言うこともできよう。よくよく考えるべき事である。これらの道理を、「心の一念二念」と言うのである。
「一念二念は、一山河大地なり、二山河大地なり」とある。「山河大地等、これ有無にあらざれば、大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変せず」とある。これは、「山河大地」は「山河大地」であり、「有無」「大小」「得不得」「識不識」「通不通」「悟不悟」によって変わらないと言うのである。これも、「一方を証すれば一方はくらし」〈一方を明らかにすれば、もう一方は暗い〉という道理に合わせて心得るべきである。
「かくのごとくの心みづから学道することを慣習する」とは、「山河大地」は「山河大地」を学ぶのである。或いは、「悟不悟」は、「悟不悟」の道理を自ら「学道する」と言うのである。人がいて法(教え)を学ぶように心得てはならない。きわめて親切な意味である。仏性は仏性を学ぶのであり、法性は法性が学ぶのであり、三昧は三昧で学ぶのである。これらを「慣習する」(身につける)というのである。
〔聞書私訳〕
/「生時は一点を増ずるか、増ぜざるか。死には一塵のさるか、さらざるか」の言葉は、この増減は、どちらか一方に取るべきところがないことをこのように言うのである。「一心の所見、これ一斉なり」(一心の見え方は同じである)というほどの事である。
これらはすでに心であると挙げて、「内なりとやせん、外なりとやせん、去なりとやせん、来なりとやせん」〈内心と言うか、外心と言うか、他所から来るとするか、他所に去るとするか〉と言った時に、「生死」が増減に関わらないことは、「生死」が「内外」「去来」の法(在り様)に関わらないほどの意である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
生れる時は心が一つ増えるのか、増えないのか。
(生時は一点を増ずるか、増ぜざるか。)
死ぬ時は心が一つ消えるのか、消えないのか。
(死には一塵イチジンのさるか、さらざるか。)
〔生まれた時に心が一つ新たに出て来たのではなく、死ぬ時に心が一つ消えるのでもない。生死というのは、宇宙の構成要素の集まりであり、ふっと集合し、ふっと離散するだけである。〕
この生死と生死についての考えを、どこに置こうと言うのか。
(この生死および生死の見、いづれのところにかおかんとかする。)
〔生死は生死のままで解脱しており、生死を考える自分の知見もそもそもいる所がない。〕
これまで述べてきた生死去来等も、みな心の一念・二念なのである。
(向来キョウライはただこれ心の一念二念なり。)
一念・二念は小さく山河大地は大きいと思うのは凡見であり、一念・二念は実に山河大地の一つ一つなのである。(一念二念は、一山河大地なり二山河大地なり。)
山河大地等あらゆるものは有でも無でもないから、大でも小でもなく、得るでも得ないでもなく、識るでも識らないでもなく、精通するでも精通しないでもなく、悟ると山河大地等が丸くなるわけでもなく、悟らないと四角になるわけでもないのである。
(山河大地等、これ有無にあらざれば、大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変せず。)
このような有・無、大・小などにもとらわれない心を、自ら学び普段の在り様とすることを、心学道と言うと決め信じ保つべきである。
(かくのごとくの心、みづから学道することを慣習するを、心学道といふと決定ケツジョウ信受すべし。)
合掌
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