〔『正法眼蔵』原文〕
日月星辰ニチガツセイシンは人天ニンテンの所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。
恁麼インモなるがゆへに、一心の所見、これ一斉イッセイなるなり。
これらすでに心なり。
内なりとやせん、外なりとやせん。
来なりとやせん、去なりとやせん。
〔抄私訳〕
ここは「一斉なるべからず」(同じではない)と言うべきであるが、「一斉なるなり」(同じである)とあるのは、心得られないようである。とはいうものの、諸々の生き物の見え方が同じでないように、一心の方より《一心の方よりというのは解脱の方よりということである》談ずる時は、諸々の生き物のそれぞれの見え方が同じでないように、またここを「一斉なるなり」と談ずるのであると心得るべきである。
これら山河大地・日月星辰の心 は、内か外か・来るのか去るのか、何れとも定めがたいが、また、何れにも当たる。是什麽物恁麼来ゼジュウモブツインモライ《是の什麽物ナニモノが恁麼に来る》〈是の何物〈仏性〉がこのように現前している〉、説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ《一物を説こうとすれば即ち中アたらず》〈仏性の端的は何と言っても的中はしない〉の道理である。
〔聞書私訳〕
/「諸類の所見同じからず、恁麼なるがゆへに、一心の所見これ一斉なるなり」とは、それぞれの意味があるが、「一心の所見」はただ一つであると心得るべきである。「一心の所見」とは「心学道」〈心の在り様がそのまま学仏道〉である。「一斉」とは、そのまま「一心」が「一斉」であり、「一斉」とは、そのまま「一心」は「一心」である「一斉」である。他の物と等しくさせるのではないのである。
/つまるところ、三界唯一心(三界はただ一心である) 、心外無別法(心の外に何も無い) であるところを、「一心の所見」と指すので、「一斉」と言うのである。「諸類の所見同じからず」と言うまでは、三界(衆生の三種の迷いの世界)の見え方をあげられるのである。「一心の所見これ一斉なるなり」とは、解脱である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
日月星辰(太陽・月・星座)は、人間界・天上界の見え方は同じではなく、諸々の生き物の見え方も同じではない。
(日月星辰ニチガツセイシンは人天ニンテンの所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。)
このようであるけれども、一心の見え方は同じである。
(恁麼インモなるがゆへに、一心の所見、これ一斉イッセイなるなり。)
〔例えば、魚は水を世界と見る、人は天地を世界と見る、対象に違いはあるが、世界と思う心は同じである。〕
これら山河大地・日月星辰がまさしく心である。
(これらすでに心なり。)
〔山河大地・日月星辰は広大無辺だが、一心という時はみなその中にこもり、心の外に何もない。〕
こうした大きな心であるが、これを内心と言うか、外心と言うか。
(内なりとやせん、外なりとやせん。)
他所から来るとするか、他所に去るとするか。(来なりとやせん、去なりとやせん。)
〔「とやせん、とやせん」はみなそれぞれの意もあるということである。
心は内の如く外の如く、来るが如く去るが如く、それぞれの現成で、それぞれ脱落しているのである。〕
合掌
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