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正4-4-2『第四身心学道』第四段② 〔日月星辰は人天の所見不同あるべし:太陽・月・星座は、人間界・天上界の見え方は同じではない〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

日月星辰ニチガツセイシンは人天ニンテンの所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。


恁麼インモなるがゆへに、一心の所見、これ一斉イッセイなるなり。


これらすでに心なり。


内なりとやせん、外なりとやせん。


来なりとやせん、去なりとやせん。



〔抄私訳〕

ここは「一斉なるべからず」(同じではない)と言うべきであるが、「一斉なるなり」(同じである)とあるのは、心得られないようである。とはいうものの、諸々の生き物の見え方が同じでないように、一心の方より《一心の方よりというのは解脱の方よりということである》談ずる時は、諸々の生き物のそれぞれの見え方が同じでないように、またここを「一斉なるなり」と談ずるのであると心得るべきである。


これら山河大地・日月星辰の心 は、内か外か・来るのか去るのか、何れとも定めがたいが、また、何れにも当たる。是什麽物恁麼来ゼジュウモブツインモライ《是の什麽物ナニモノが恁麼に来る》〈是の何物〈仏性〉がこのように現前している〉、説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ《一物を説こうとすれば即ち中たらず》〈仏性の端的は何と言っても的中はしない〉の道理である。


〔聞書私訳〕

/「諸類の所見同じからず、恁麼なるがゆへに、一心の所見これ一斉なるなり」とは、それぞれの意味があるが、「一心の所見」はただ一つであると心得るべきである。「一心の所見」とは「心学道」〈心の在り様がそのまま学仏道〉である。「一斉」とは、そのまま「一心」が「一斉」であり、「一斉」とは、そのまま「一心」は「一心」である「一斉」である。他の物と等しくさせるのではないのである。


/つまるところ、三界唯一心(三界はただ一心である) 、心外無別法(心の外に何も無い) であるところを、「一心の所見」と指すので、「一斉」と言うのである。「諸類の所見同じからず」と言うまでは、三界(衆生の三種の迷いの世界)の見え方をあげられるのである。「一心の所見これ一斉なるなり」とは、解脱である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

日月星辰(太陽・月・星座)は、人間界・天上界の見え方は同じではなく、諸々の生き物の見え方も同じではない。

(日月星辰ニチガツセイシンは人天ニンテンの所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。)


このようであるけれども、一心の見え方は同じである。

(恁麼インモなるがゆへに、一心の所見、これ一斉イッセイなるなり。)

〔例えば、魚は水を世界と見る、人は天地を世界と見る、対象に違いはあるが、世界と思う心は同じである。〕


これら山河大地・日月星辰がまさしく心である。

(これらすでに心なり。) 

〔山河大地・日月星辰は広大無辺だが、一心という時はみなその中にこもり、心の外に何もない。〕


こうした大きな心であるが、これを内心と言うか、外心と言うか。

(内なりとやせん、外なりとやせん。)


他所から来るとするか、他所に去るとするか。(来なりとやせん、去なりとやせん。)

〔「とやせん、とやせん」はみなそれぞれの意もあるということである。

心は内の如く外の如く、来るが如く去るが如く、それぞれの現成で、それぞれ脱落しているのである。〕


                               合掌



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