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正4-3-4『第四身心学道』第三段④〔仏祖の鼻孔をかりて出気せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印証せしむる〕


 (『正法眼蔵』原文)

かくのごとく学道するに、有功ウコウに賞おのづからきたり、


有賞ウショウに功いまだいたらざれども、


ひそかに仏祖の鼻孔ビクウをかりて出気シュッキせしめ、


驢馬ロバの脚蹄キャクテイを拈ネンじて印証せしむる、


すなはち万古の榜様ボウヨウなり。



〔抄私訳〕

「有功に賞おのづからきたり」というのは普通の事で、「有賞に功いまだいたらず」という事は普通ではない。しかし、これも普通の功だ賞だということではない。


「有功に賞来る」とは、仏性と狗子クシ(犬)の間柄である。「有賞に功いまだ至らず」とは、仏性は仏性、狗子は狗子という程の意味である。


「功」も、「賞」も、「来」も、「至らず」も、皆心の上の功徳の荘厳ショウゴン(厳かな飾り) と心得るべきである。


この「有功」「有賞」等の言葉を、「仏祖の鼻孔をかりて出気せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印証せしむるなり」とは、これらの言葉を、仏祖の方から説き、驢馬ロバの脚の蹄ヒヅメを取って解脱すべきであるという意である。


驢馬は、殊に馬にとっても下級の馬であるが、これを今引き出されるのは、理解し難いようであるが、善悪取捨の法(在り様)を超越しているからには、これを疑問に思うべきではないのである。


〔聞書私訳〕

/「有功に賞来たり、有賞に功いまだ至らず」とあるが、功によって賞を受けることは、世間の慣例である。仏道では、先ず有・無より始めて、その見解は世間の見解とは異なる。だから、功と賞とを、能・所(主・客)を別々にせず、尽十方界(十方のあらゆる世界)を功とも賞とも使うのである。


/尽十方界が功である時、何を賞として受けるのか。功と賞は一つであると言うから、仏になることを待たない坐禅である。仏になることを待たない坐禅は、功だけ有って賞が無いと言うことができる。そして、これはまだ、功と賞を二つに理解した時の認識が残っているようである。


「有賞に功いまだいたらざれども、ひそかに仏祖の鼻孔をかりて」とは、借りる人はいないけれどもこのように言われるのである。つまり、辺際が無い意である。「一切衆生、悉有は仏性なり」とも、「仏性の義を知らんとおもはば」とも言うのが、そのまま「有賞に功未だ至らざる」ということである。


/「一切衆生は、有仏性なり」は《有賞有功とも理解する》、「一切衆生は、無仏性なり」は《有賞無功とも理解する》。有賞の有は、有仏性の有である。「功いまだ至らざれども」という「至」は、若至・不至・既至である。


/「仏祖の鼻孔をかりて出気せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印証せしむる」とは、「一心で呼吸し、三界をひねって印可証明する」という意に理解することができる。



〔『正法眼蔵』私訳〕

このようにこの身心の在り様に学ぶと、修行の功によって賞が自ずから来る、

かくのごとく学道するに、有功ウコウに賞おのづからきたり、)


賞に修行の功がまだ至らなくても、

(有賞ウショウに功いまだいたらざれども、)              


知らない間に仏祖の鼻孔を借りて自ら呼吸し、

(ひそかに仏祖の鼻孔ビクウをかりて出気シュッキせしめ、)


驢馬の脚を曲げて〈坐禅の足を組んで〉体感する。

(驢馬ロバの脚蹄キャクテイを拈ネンじて印証せしむる、)


これが永遠不変の身心学道〈身心の在り様に仏道を学ぶ〉の手本である。(すなはち万古の榜様ボウヨウなり。)


                               合掌



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