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正4-3-2『第四身心学道』第三段②〔あるひは金襴衣を正伝し、金襴衣を稟受す〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

あるひは金襴衣キンランエを正伝ショウデンし、金襴衣を稟受ヒンジュす。


あるひは汝得吾髄ニョトクゴズイあり、三拝依位而立サンパイエイニリュウあり。


碓米伝衣ツイメイデンエする、以心学心なり。


剃髪染衣テイハツゼンエテイハツゼンエ、すなはち回心なり、明心なり。


蝓城ユジョウし入山ニッサンする、出一心、入一心なり。山の所入なる、思量箇不思量底なり。


世の所捨なる、非思量なり。



〔抄私訳〕

「金襴衣を正伝し金襴衣を稟受す」 とは、釈尊と迦葉カショウの間柄である。「汝得吾髄」とは、達磨大師と四人の門人のことである。「三拝依位而立サンパイエイニリュウ」は、二祖慧可が達磨大師を礼拝し仏法の心髄を得たという故事である。「碓米伝衣ツイメイデンエ」は五祖と六祖の故事である。これらによって、「以心学心」(心をもって心を学ぶ)と説くのである。一般には、これらを心と説くことは、教家の論師(経典の注釈書に通じた学者) などが説けるところではない。


「蝓城ユジョウし入山する、出一心、入一心なり」とは、シッダルタ皇子が王城を捨て、修行のために檀特山に入られた姿がこの一心である。王宮を出る姿が、「出一心」に当たる。山に入る所を、「入一心」と心得るべきである。つまるところ、これらを皆「心」と心得るべきである。


山と入との間は、「思量箇不思量底《この不思量底を思量せよ》の道理である。世間が捨てるところを非思量と心得るべきである。又、入る山は、「思量箇不思量底」であり、「世の所捨なる、非思量なり」〈世間が捨てるのは、非思量である〉 の道理である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

或いは、釈尊が迦葉カショウに金襴キンラン(金糸模様)の袈裟ケサを伝え、迦葉が、この法を断絶せしめずと誓って金襴の袈裟を拝受したことがある。

(あるひは金襴衣キンランエを正伝ショウデンし、金襴衣を稟受ヒンジュす。)


或いは、初祖達磨ダルマが二祖慧可エカに「汝は吾が仏法の心髄を得た」と言って法を伝え、慧可が達磨を三拝し脇に立って、達磨の法を継いだことがある。

(あるひは汝得吾髄ニョトクゴズイあり、三拝依位而立サンパイエイニリュウあり。)


米を碓いていた六祖慧能エノウが五祖弘忍コウニンに認められ袈裟を伝えられた(法を伝えられた)ことがある。これらは、みな心によって心を学ぶことである。

(碓米伝衣ツイメイデンエする、以心学心なり。)


髪を剃り、衣を墨色に染める、このとき、俗心と真心の振替えがあり、これが心の開明である。

(剃髪染衣テイハツゼンエテイハツゼンエ、すなはち回心なり、明心なり。)


シッダルタ太子が王城を出て山に入るということは、それまでの俗心を出て真心に入るということである。

(蝓城ユジョウし入山ニッサンする、出一心、入一心なり。)


山に入るとは、この不思量底を思量する〈この思量していない今の様子に参ずる〉ことである。

(山の所入なる、思量箇不思量底なり。) 


世間の人が捨てるのは、非思量〈思量でない実物の様子〉である。

(世の所捨なる、非思量なり。)



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