スキップしてメイン コンテンツに移動

第十四段その3①〔我々の身体は、「風火未散」の身体である。仏性が我々の眼耳手足となって出現しているのだ〕


(『正法眼蔵』本文)

 「風火未散フウカミサン」といふは、仏性を出現せしむるなるべし。


仏性なりとやせん、風火なりとやせん。


仏性と風火と、俱出グシュツすといふべからず。


一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。


ゆゑに長沙チョウサは蚯蚓キュウインに有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず、

ただ「莫妄想マクモウゾウ」と道取す、「風火未散」と道取す。



〔抄私訳〕

・/「師云く、『是只風火未散《ただこれ風火の未だ散ぜざるなり》』」とある。これは、あらゆるものは地水火風空の五大が仮りに和合して出現するのであるから、斬れた二つが動くからには、「風火未散」であることが明かだといわれたように理解されようが、これは間違った考えである。


この風火は何ものか、仏性である。それなら、散・未散は何処に置くのか。この道理によって「風火未散」と示されるのである。だから、「風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし」と釈されるのである。ただ繰り返し仏性を示す言葉と理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/「風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、俱出すといふべからず。一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず」と言う。


「三界は常住不壊であり世間の法である」というのも「未散」であり、「風火未散」を「仏法未散」とも言い、「蚯蚓斬れて」を「仏性斬れて」とも言うように、「未散」も「散」と取り替えて理解することができる。


/私(詮慧禅師)は言う、「そもそも仏性の本質と現れがどういうものであるか分からないから、仏性は有情のものにもあり、非情のものにもあるという言葉だけあって、まだその本来の姿を知らないようなものである。


言葉で理を明らかにできない時は、理に迷うだけでなく、言葉にも迷う。仏性を仏性だと説き示しても、言葉だけあって実体がないのである。仏性が親切に説き示される時は、「風火未散」と聞こえるのである。


/「風火未散」とは、風火が未だ散っていないと言うのではなく、風火の始めから終わりまでを説く言葉である。『第一現成公案』の巻の「風性常住無所不周」(風性は常住にして周からざる所無し:仏性は普遍であり常住であり、何時でも何処にでもある))の道理である。


そのわけは、始めから終わりまで「未散」であることを「風火」と言う、「風火」の始めから終わりまでは「仏性」の始めから終わりまでであるからである。


「散」ではなく、「未散」ではない、これを「仏性」と言う。出ではなく、現ではない、これを「仏性」と言う。「未散」が「風火」に出現することを「風火」と言い、「風火」が「未散」に出現することを「仏性」と言う。


だから、「仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と俱出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず」というお示しがあるのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

「風火未散」とは、仏性を出現させることである。

(「風火未散」といふは、仏性を出現せしむるなるべし。)

〔我々の身体は、「風火未散」の身体である。仏性が我々の眼耳手足となって出現しているのだ。〕


だから仏性とも言われ、風火(地水火風空の五大)とも言われる。

(仏性なりとやせん、風火なりとやせん。)

〔我々は仏性とも人間とも、老人とも少年とも言われる。仏性に背かないからだ。〕


仏性と言えば仏性きり、風火と言えば風火きり、だから倶出すると言ってはならない。あらゆるものは一つに帰するから、一つが出ると他が出ないとは言ってはならない。だから、風火がすなわち仏性であると言ってはならない。

(仏性と風火と、俱出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。)

〔風火と言えば仏性と言う必要はない。爺ジジイすなわち老人と言う必要はない。〕


だから、長沙はミミズについて有仏性とも無仏性とも言わず、ただ「莫妄想」と言い、「風火未散」と言うだけである。

(ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず、ただ「莫妄想」と道取す、「風火未散」と道取す。)



                       合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村