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正4-2-2『第四身心学道』 第二段②〔発菩提心なり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕                                                                                           

発菩提心ホツボダイシンなり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり。


これらの心を放下ホウゲして学道するあり、拈挙ネンコして学道するあり。



〔抄私訳〕                                                  この発菩提心以下の心の在り様は、後の段で委しく釈される。「放下ホウゲ」とは、放つ意である。「拈挙ネンコ」とは取るという意味である。何をどのように放ち、何をどのように取るか。これも「心」をもって、放つとも取るとも使うのである。


〔聞書私訳〕 

/「赤心片々」とは、顕わである感じである。これを三界唯心(あらゆる世界はただ心が造り出すのである)というようにも、「三界一心」(あらゆる世界は一心による)というようにも学んで自分のものとしたならば、何の隔てる所があろうか、何の障りがあろうか。だから「赤心片々」と使うのである。


「古仏心なり」というのは、「赤心片々なり」ということである。「平常心」というのは、「三界一心」と説くのと同じ事であり、衆生の普段の心ではない。従って、「放下」「拈挙」というのは、ただいたずらに、放ち下せ、取り上げろなどと言うのではない。それは、思量によって学道する、不思量によって学道するという程の事である。身の在り様を学ぶ、心の在り様を学ぶ、という程の「放下」「拈挙」である。


/「拈挙」というのは、第一『現成公案』の巻で、「諸法の仏法なる時節」〈森羅万象が仏法の在り様である時節〉といって、迷悟・修行・生死・諸仏・衆生を、ありありと説かれるのに当たる。「放下」というのは、『現成公案』の巻で、「万法ともにわれに非ざる時節〈あらゆるものが無我である時節〉、迷なく、悟なく、諸仏なく、衆生無く、生なく、滅なし」というのに当たるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕                                                                                                

これが発菩提心(悟りへ向かう心を発すこと)である。このように真実の心をもって仏道を修行するその心は、赤心片々〈真心〉であり、古仏心〈祖師の心〉であり、平常心〈普段の心持ち〉であり、三界一心〈あらゆる世界は一心による〉である。

(これ発菩提心ホツボダイシンなり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり。)


これらの心を「なし」「なし」と放下していく修行の仕方もある。或いは、これらの心を取り上げて、「古仏心は如何イカン(どうか)」「平常心は如何」と、実参実究していく修行の仕方もある。

(これらの心を放下ホウゲして学道するあり、拈挙ネンコして学道するあり。)  


   

                                   合掌
                             

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