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正4-2-1『第四身心学道』 第二段①〔心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり:心の在り様を学ぶとは、あらゆる心の在り様を学ぶのである〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕           

心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり。

  

その諸心といふは、質多心シッタシン《慮知念覚心なり》・汗栗駄心カリダシン《草木心なり》・矣栗駄心イリダシン《積聚精要心シャクジュウショウヨウシンなり》等なり。


又、感応道交カンノウドウコウして、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依キエし、発菩提心ホツボダイシンの行李アンリを習学するなり。


たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし。



〔抄私訳〕

今ここに挙げる三種の「心」をこのように出しているからといって、日頃我々が具えている心と思ってはならない。しばらく仏性の上で、蚯蚓キュウイン(ミミズ)・狗子クシ(犬)等を談じたほどのことである。


「心」が究尽する道理の上で、しばらく「質多心」とも、或いは「矣栗駄心とも談ずるのである。「心」という言葉について、日頃習い覚えているそれぞれの言葉を挙げるといっても、決して普通の考えと同じではないのである。


「感応道交」の言葉は、水が澄めば天の月が映るように、水が天に昇らず月が水に降らなくても、本体とその作用が和合し、衆生の心のはたらきと仏のはたらきが相応すれば、水に月が映るように、衆生の心の水が清く澄めば、法性ホッショウの月が心の水に宿ると言うのである。


これはありふれた喩えで、普通の考えである。これは能所があり、自と他が相対アイタイするので、仏法とは言えない。


結局、仏祖が説く「感応道交」とは、仏性は仏性であり、狗子と仏性の間柄を「感応道交」と言うのである。


「菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり」と言えば、前後を立てているように思われるが、前後があるのではない。「発菩提心」が即ち「心」であり、「帰依」が即ち「心」であり、前も後も皆「心」なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕            

心の在り様を学ぶとは、あらゆる心の在り様を学ぶのである。

(心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり。) 


あらゆる心とは、慮知念覚の心(志向・思惟・判断・認識等をする心)・肉団心(肉体の中にある心=心臓)・積聚精要の心(全体を把握してその要旨を摘出する心)である。

(その諸心といふは、質多心《慮知念覚心なり》・汗栗駄心《草木心なり》・矣栗駄心《積聚精要心なり》等なり。)


また、仏の心と衆生の心が通じ合い、菩提心(悟りへ向かう心)を発オコした後、仏祖(仏陀と祖師)の大いなる道に帰依(帰投し依伏する)し、発菩提心の日常の在り様を習い学ぶのである。

(又、感応道交カンノウドウコウして、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依キエし、発菩提心ホツボダイシンの行李アンリを習学するなり。)


たとえ、まだ真実の菩提心が発らなくても、先に菩提心を発された仏祖の在り様を習うべきである。

(たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし。)



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