〔聞書私訳〕
/この『身心学道』の巻は、自分の身心の在り様をよく学べと心得るのである。身によって学び、心によって学べというのではない。
/身心を明らかにするにおいて、天台止観(天台宗の観心修行)で明らかにする身の威儀とは、常行三昧(阿弥陀仏のまわりを歩き念仏する行)・常坐三昧(仏前に独座し瞑想する行)・半行半坐(歩いて行う行と座って行う行の組み合わせ)《半行半坐は今の懺悔の行に当たる》・非行非坐三昧(前記三種以外のすべての行)等である。意の止観という心に付ける。
戒(順守すべききまり)においても、身口意シンクウイを分けるときに、貪トン(むさぼり求める貪欲)瞋ジン(思い通りにいかないことに対する憎しみ憤り)痴チ(真理に暗く無知なこと)は、意に作るのである。
/「不道を擬するに」とは、そのことに向かっていくことであり、まだ確かにそれと決まっていない時である。
/仏道では先ず、「不」の字の理解が世間と異なっている。不得・
不知・不会フエなどというのは、そのまま悟道の言葉として理解する。有無も、有念・無念を立てるときは、無念をすぐれているとし、有学・無学の聖者を立てるときも、無学はすぐれていると理解する。
従って、この「不道」も「不得」も「不学」も「転遠」も、仏法の方から取る考えもあろうが、ここではその意味ではない。ただ言わないことは出来ないのであり、修行しなければますます遠のくということである。すでに、南嶽大慧ナンガクダイエ禅師の言葉にも、「修証はなきにあらず」とあるからであり、また、「仏道を学せざれば、すなはち外道ゲドウ・闡提センダイの道に堕在す」とあるからである。
/「仏道は言語に拘らない。言葉に表現できるのは仏道ではない」と言う間違った見解の輩が世間に多いが、これはとんでもないことである。
仏法の言葉を知らない人は言うことはできない。知っている人は、言わずに過ごすことはない。仏法の道理を会得すれば必ず言うものである。会得出来ないような人は、本当に言うことが出来ない。だから、「不道を擬するに不得なり」と言うのである。
「不学」もそれと同様である。多く聞き広く学んでもしかたがなく、ただ一句を悟ることには及ばないと言う輩ヤカラもいる。本当に、一句を明らめたら、広く学ぶ必要はないのである。
それには、先例がある。「応無所住而生其心オオムショジュウニショウゴシン」(まさに住するところなくして、その心を生ずべし)の一句で悟った六祖は五祖から伝法できたが、広学多学の神秀ジンシュウはできなかったのである。しかし、これらの詳しい事情は分からない。
広学多学であっても仏道は知られないのに、仏道を一句で了達するということは、甚だその根拠がない。そのわけは、日頃の百不当(弓を百回射ても当たらない)が、今の一当(当たる)となるときは、百も一も、当も不当も別ではないからである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
仏道は、仏道以外で学ぼうとしても決して出来ず、
(仏道は、不道フドウを擬ギするに不得フトクなり、)
学ばなければますます遠ざかるのである。
(不学を擬するに転遠テンオンなり。)
合掌
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