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正4-1-1『第四身心学道』第一段①後半〔仏道は、不道フドウを擬ギするに不得フトクなり:仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ない〕

 

〔聞書私訳〕

/この『身心学道』の巻は、自分の身心の在り様をよく学べと心得るのである。身によって学び、心によって学べというのではない。


/身心を明らかにするにおいて、天台止観(天台宗の観心修行)で明らかにする身の威儀とは、常行三昧(阿弥陀仏のまわりを歩き念仏する行)・常坐三昧(仏前に独座し瞑想する行)・半行半坐(歩いて行う行と座って行う行の組み合わせ)《半行半坐は今の懺悔の行に当たる》・非行非坐三昧(前記三種以外のすべての行)等である。意の止観という心に付ける。


(順守すべききまり)においても、身口意シンクウイを分けるときに、貪トン(むさぼり求める貪欲)ジン(思い通りにいかないことに対する憎しみ憤り)チ(真理に暗く無知なこと)は、意に作るのである。


/「不道を擬するに」とは、そのことに向かっていくことであり、まだ確かにそれと決まっていない時である。


/仏道では先ず、「不」の字の理解が世間と異なっている。不得・

不知・不会フエなどというのは、そのまま悟道の言葉として理解する。有無も、有念・無念を立てるときは、無念をすぐれているとし、有学・無学の聖者を立てるときも、無学はすぐれていると理解する。


従って、この「不道」も「不得」も「不学」も「転遠」も、仏法の方から取る考えもあろうが、ここではその意味ではない。ただ言わないことは出来ないのであり、修行しなければますます遠のくということである。すでに、南嶽大慧ナンガクダイエ禅師の言葉にも、「修証はなきにあらず」とあるからであり、また、「仏道を学せざれば、すなはち外道ゲドウ・闡提センダイの道に堕在す」とあるからである。


/「仏道は言語に拘らない。言葉に表現できるのは仏道ではない」と言う間違った見解の輩が世間に多いが、これはとんでもないことである。


仏法の言葉を知らない人は言うことはできない。知っている人は、言わずに過ごすことはない。仏法の道理を会得すれば必ず言うものである。会得出来ないような人は、本当に言うことが出来ない。だから、「不道を擬するに不得なり」と言うのである。


「不学」もそれと同様である。多く聞き広く学んでもしかたがなく、ただ一句を悟ることには及ばないと言う輩ヤカラもいる。本当に、一句を明らめたら、広く学ぶ必要はないのである。


それには、先例がある。「応無所住而生其心オオムショジュウニショウゴシンまさに住するところなくして、その心を生ずべし一句で悟った六祖は五祖から伝法できたが、広学多学の神秀ジンシュウはできなかったのである。しかし、これらの詳しい事情は分からない。


広学多学であっても仏道は知られないのに、仏道を一句で了達するということは、甚だその根拠がない。そのわけは、日頃の百不当(弓を百回射ても当たらない)が、今の一当(当たる)となるときは、百も一も、当も不当も別ではないからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕           

仏道は、仏道以外で学ぼうとしても決して出来ず、

(仏道は、不道フドウを擬ギするに不得フトクなり、)


学ばなければますます遠ざかるのである。

(不学を擬するに転遠テンオンなり。)



                               合掌



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