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正3-14-4①『第三仏性』 第十四段その4①〔仏性というのは、生きてピンピンしている時だけあって、死ねばないと思ってはいけない〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

又、仏性は生ショウのときのみにありて、死のときはなかるべしとおもうふ、もとも少聞薄解ショウモンハクゲなり。 


生のときも有仏性なり、無仏性なり。


死のときも有仏性なり、無仏性なり。


風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。


たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。


たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。


しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不

神なり、知不知に性不性なるべきと邪執ジャシュウせるは、外道なり。



〔抄私訳〕

・/「又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもうふ、尤も少聞薄解なり」と言う。


・/「俱動」の時は仏性が有り、俱動しない時は仏性がないと、一般には理解するであろうが、これを斥けられるのである。生も死もともに仏性であり、生也全機現ショウヤゼンキゲン(生もまた全分のはたらきの現れ)・死也全機現(死もまた全分のはたらきの現れ)の生死であるから、生の時も死の時もともに仏性なのである。


・/「仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり」と言う。


既に言ったように、「動」くものには仏性があり、「不動」のものには仏性がない。或いは、「識」の時は仏性があり、「不識」の時は仏性がない。このような見解を「外道なり」と言われるのである。


動・不動、在・不在、識・不識、神・不神、知・不知、性・不性、いずれもみな仏性であるからである。


〔聞書私訳〕

/「小聞薄解」の者が、生の時は仏性があり、死の時は仏性がないというのに、今、死も加えて、死の時も仏性があると理解するのは間違った見解である。この意味では、生の時の仏性も当たらない。仏性には、全く生死を立てない。


であれば、どうして生死があろうか、ただ仏性を生と使い、仏性を死と使っても、どちらも差し障りが無い。だから、「生の時も有仏性なり、無仏性なり。死の時も有仏性なり、無仏性なり。」と使うのであり、その通りなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

また、仏性というのは、生きてピンピンしている時だけあって、死ねばないと思うのは、法を聞くことが少なく理解が浅い者である。(又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもうふ、もとも少聞薄解なり。)


生の時も、有仏性とも無仏性とも言い、死の時も、有仏性とも無仏性とも言うのである。(生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。)

もし風火の散・未散を論じるなら、仏性の散・未散も論じなければならない。

(風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。)

〔仏性は生死に関わらず、生死を離れている。〕


たとえ散の時も仏性有であり仏性無である。たとえ不散の時も仏性有であり仏性無である。

(たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。)

〔仏性は有と言っても無と言ってもいい、散と言っても未散と言ってもいい、仏性は散・未散に拘わらないのである。〕


そうであるのに、仏性は動くものだけにあって動かないものにはない、仏性は意識のあるものだけにあって意識のないものにはないと間違った考えに執着しているのは、外道である。

(しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。〉



                      合掌



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