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正3-13-5『第三仏性』十三段その5〔自他ともに仏性に覆い蔵くされているといっても、まだ自分は解脱していないなどと言ってはいけない〕


〔『正法眼蔵』本文〕

しるべし、この故犯すなはち脱体の行履アンリを覆蔵フクゾウせるならん。


これ撞入トウニュウと説著セッヂャクするなり。


脱体の行履アンリ、その正当ショウトウ覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。


しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢ロゼンバゴカン



〔抄私訳〕

・「しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん、これ撞入と説著するなり」とある。

この「故犯」はすなわち仏性である。仏性にみな「覆蔵」されて仏性の外に余物がないという意味である。「覆蔵す」といっても、雲が月を覆う意ではなく、すべてが仏性である道理を「覆」と理解するのである。


・「脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。」とある。

「脱体」の「故犯」、「正当覆蔵のとき」は、自己も覆い蔵くし、他人も覆い蔵くす。自他を超越し、自他に関わらない意である。「驢前馬後漢」とは、ただ「驢前馬後」と言っても、ただ馬の上での前後であるから、「自」とも「他」とも「故犯」とも「知而」とも「撞入這皮袋」とも使え、みな仏性の上の荘厳ショウゴン(飾り)であると理解すべきである。みな同じものであるからである。


〔聞書私訳〕

/「この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん」と言う。

この「覆蔵」は、第三の仏性海の段で、「仏性海の朝宗チョウソウに罣礙ケイゲする物なり」〈仏性海に妨げられて、妨げるのも仏性、妨げられるのも仏性であるといったほどの「覆蔵」と理解すべきである。尽界を「覆蔵」するような「袋」は尽界の外にあるはずである。「覆蔵」の置く所はない。徒に無明が法性を覆うように思ってはならない。仏性が仏性を覆うのであり、「覆蔵」が「覆蔵」を覆い蔵すのである。


/三界(衆生が輪廻する三つの迷いの世界)を「脱体」(全体脱落)すれば一心(一切の分別作用を離れた心)であり、一心を「覆蔵」すれば三界である。


/「脱体」「覆蔵」「知而故犯」「狗子」「仏性」などが、等しくて別でないことを、ここでは「驢前馬後漢」と言われるのである。

〔「驢前馬後漢」は、一般には、驢馬の前後に追従する男、他の言行に追従して自己独自のはたらきのない者を罵っていうと釈される。訳者はこの一般の釈をとる。〕



〔『正法眼蔵』私訳〕

知るべきであるこの「ことさらに犯すこと」が、すなわち解脱のありようを覆い蔵くすのである。

(しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。)

〔解脱している各人のありようが仏性に覆い蔵くされて、仏性の外に余物がないというのである。〕


これを仏性がこの身体に入ると説くのである。

(これ撞入と説著するなり。)


解脱のありようが、仏性に覆い蔵くされる正にその時、自己も仏性に覆い蔵くされ、他人も仏性に覆い蔵くされているのである。

(脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。)


しかも自他ともに仏性に覆い蔵くされているといっても、まだ自分は解脱していないなどと言ってはいけない、人の言行に追随してうろうろしている君よ。

(しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢)



                        合掌


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