〔『正法眼蔵』本文〕
趙州いはく、「無」。
この道をきゝて、習学すべき方路あり。
仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道インモドウなるべし、
傍観者ボウカンシャの喚作カンサの無も恁麼道なるべし。
その無わづかに消石ショウセキの日あるべし。
〔抄私訳〕
・「趙州いはく、無」。この「無」の言葉もまた理解できない。普通に思い慣れている有無の無であれば、どうして、狗子に仏性が無いと言われるのか疑わしく、また、道理に合わないのである。
結局、「仏性の自称する無も」、「狗子の自称する無も」、「傍観者の喚作の無も」(傍観者が言う無も)、みな「恁麼道なるべし」(このように言うのである)と釈されるからには、仏性を指して「無」と言い、狗子の当体を「無」と説くのである。
傍観者も、説く者も、この趙州も「無」であり、これを問う僧も「無」である。「無」が究尽する道理を、ここでは、趙州は「無」と言われたと心得るべきである。
・「その無わづかに消石の日あるべし」と言う。
日が強く照らす時は、「石を消す」作用がある。そのように、今、仏性が究め尽くす力量に皆消されるのである。
結局、仏性が強く照らすとき、仏性の外に余物がない意味合いである。これが仏性独立の姿である。
〔聞書私訳〕
/「傍観者の喚作カンサの無」という「傍観者」は趙州や問う僧などを指すのである。もっとも、傍らに人がいるというのではない。「傍観者」がそのまま「無」であるから、別に「傍観者」を置くわけではないのである。
/「自称」の「無」は、結局、仏性の「無」でもなく、狗子の「無」でもない。ただ「自称」の「無」である時に、後でも「消石の日ある」と言うように、残らず消えるわけである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
趙州は、「無」と言う。(趙州いはく、「無」。)
〔この「無」は、あらゆる世界の何に当てても、当たらないところがない。〕
この言葉を聞いて、習い明らめるべき路がある。(この道をききて、習学すべき方路あり。)
仏性が出てきて自ら言う時も「無」としか言わないであろう、狗子が出てきて自ら言う時も「無」としか言わないであろう、傍観者が言う時も、やはり「無」としか言わないであろう。(仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。)
〔これは、「無」で、尽大地、尽法界、一大蔵経、諸仏諸祖などあらゆるものを尽くすということである。〕
この「無」という時に、煩悩も、妄想も、仏も菩薩も、ありとあらゆるものがみな消えるのである。(その無わづかに消石の日あるべし。)
〔これは、「無」の功徳が絶大であることを言われるのである。実に、一切は「無」でないものは一つもないのである。〕
合掌
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