〔『正法眼蔵』本文〕
このゆゑに、半物ハンモツ全物ゼンモツ、これ不依倚フエイなり。
百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。
このゆゑにいはく、籮籠ラロウ一枚、時中十二。《籮籠は一枚、時中は十二、》
依倚不依倚、如葛藤依樹ニョカットウエジュ。《依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し。》
天中及全天、後頭未有語《天中と全天と、後頭未だ語あらず》なり。
〔聞書私訳〕
/「半物全物これ不依倚なり」と言う。上下の上で尽界を立てれば、半分は上、半分は下である。尽界の上で上下を説く時は、全が上、全てが下の義が現れるのである。
/「百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり」と言う。仏性を説くときは正に「不依倚」なのである。
/「半物全物、これ不依倚なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり」云々。これはつまり、「不依倚」の道理をあれこれと述べているのである。次に「このゆゑに」、とある。
/「籮籠一枚」とは、嫌った籮籠(束縛するもの)を今「一枚」の「時中十二」に作るが、これはみな仏性である。
/「籮籠ラロウ」は竹の籠である。法にたとえれば繋縛ケバクの法である。籮籠は三界サンガイ(有情が六道に生死流転する凡夫界)にもたとえられる。この三界を厭い捨てようという意味合いで籮籠という言葉がここに出たとは言わない。ただ「一切衆生は無仏性である」というほどに心得るべきである。このように心得たときは、嫌われる「籮籠」がそのまま仏性であり、解脱の「籮籠」なのである。
/「籮籠」とは繋縛の意味合いに使う。ただ、これはそうではなく、「仏性一枚」というほどのことである。
/「葛藤が樹に倚る」とは、未だ解脱していない時を指して一般には言うのである。「樹倒れば藤枯れる」といって、樹が倒れ葛藤も枯れたのを、解脱の言葉としてただ習っている。今の「如葛藤倚樹」は、「葛藤」も「仏性」、「樹」も「仏性」であるから、未解脱の言葉ではなく、みな解脱の義である。今の「依倚」と「不依倚」ほどの言葉である。「仏性」は「仏性」に依るというほどの義である。
/「依倚」と「不依倚」とは、「依倚不依倚」の註釈では、「葛藤の樹に倚るが如し」である。「天中及び全天」の註釈では、「後頭未だ語有らず」である。
/「天中及全天」とは、前の「時中十二」の言葉で心得るべきである。「十二時中」とは、十二の時があるようであるのを「時中十二」と説けば、時に十二は籠るのである。このようなわけで、「天中」とは「全天」と表す言葉である。
/「後頭未だ語有らず」とは、「天中及全天」によって心得るべきである。「天中」ということの「中」は、「全」であるはずであるから、「後頭」ということがあるはずがない。だから「未だ語有らず」と書かれるのである。これは「仏性等学、明見仏性」(仏性を等しく学べば、仏性を明らかに見る)というほどのことである。
/「後頭未だ語有らず」は「全天」を説く言葉である。これは「心不可得」の義である。「心中及全心」と言っても同じである。
/結局、「後頭」と言ったからには「語」はあるはずがない。また、言葉が出て来るようでは「後頭」の義はあるはずがない、「前頭」になるでろうからである。この「頭」の字は特別な意味は無く、「後」という言葉に従って「頭」と言う。かしら(頭)のはたらきではない。どの段でも、仏性の道理を「十二時中不依倚」とも、何とも説くのである。よくよく考え合わすべきである。
/「天中及全天、後頭未有語」云々。とある。天中は全天を指し、「後頭未有語」は「便休」ほどの言葉にあたるのである。言葉も今は無いほどの意味合いであるが、言葉が無いということではない。「未有語」の道理がそのまま仏性であるからである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
このために、半分でも全部でも、指の先ほどでも全大地でも、みなこれは何ものにも依りかからない仏性なのである。(このゆゑに、半物全物、これ不依倚なり。)
百千の物にも依りかからず、百千の時にも依りかからない仏性なのである。(百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。)
というわけで言う、網や籠のように我々を捕まえて身動きのできない状態にしてしまうあらゆるとらわれは、すべて仏性の一枚であり、一日二十四時間は仏性の一枚一枚なのである。(このゆゑにいはく、籮籠一枚、時中十二。《籮籠は一枚、時中は十二、》)
依りかかるのも依りかからないのも、つるが樹に倚りかかるように、仏性と仏性が絡まり合っているように、一つであり同じなのである。(依倚不依倚、如葛藤依樹。《依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し。》)
天地の万物は仏性である。ここまで言えばあとは言葉もなくなる。(天中及全天、後頭未有語《天中と全天と、後頭未だ語あらず》なり。)〔つまり「黄檗便ち休す」〕。
合掌
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