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正3-11-6『第三仏性』第十一段その6〔これは黄檗オウバクが、かの南泉を相手にできなかったということではないのか〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

 この因縁を挙して、潙山イサン、仰山ギョウザンにとふていはく、「莫是黄檗搆他南泉不得麽マクゼオウバクコウタナンセンフトクマ《是れ黄檗オウバク他の南泉ナンセンを搆コウすること得ざるにあらずや》」。


 仰山いはく、「不然、須知、黄檗有陥虎カンコ之機《然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎之機有ることを》」。


 潙山云イハク、「子見処シケンジョ、得恁麼長トクインモチョウ《子ナンジが見処、恁麼に長ずることを得たり》」。


 大潙の道ドウは、そのかみ黄檗は南泉を搆不得コウフトクなりやといふ。


 仰山いはく、「黄檗は陥虎カンコの機あり」。すでに陥虎することあらば、埒虎頭ラッコトウなるべし。




〔聞書私訳〕

/潙山は大円禅師であり、仰山の師である。仰山は智通大師であり、潙山の弟子である。

「潙山いわく、『是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや』」とは、

/「黄檗は南泉を搆不得なりや」と言ったと思われる。例えば、黄檗は南泉の見処(会得した処)を知っているのかというほどの意である。


/「仰山いはく、『然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎の機有ることを』」とは、この「然らず」は、黄檗が南泉を相手にできることを「然らず」と言うのではない。もともと黄檗も片方の手を出し、一時の説法をし、南泉も片方の手を出して、一時の説法をするのである。〔両者とも同じ力量である。〕「然らず」ならば、相手にできない・相手にできるという言葉にどれ程の違いがあろうか。


/「陥虎の機」とは、仰山が黄檗を讃嘆する言葉である。


/外道が仏師にこれを問う事が有った。仏の言葉は、「然らず」と仰せられた。「搆不得」である所が「然らず」なのである。


/「潙山いはく、『子ナンジが見処ケン所は、恁麼インモに長ずることを得たり』」とは、師の潙山が弟子の仰山を褒める言葉である。この「子」とは仏性である。例えば、「仏性が見処は、恁麼に長ずることを得たり」というようなものである。この「長」は、潙山の上にも、黄檗の上にも、南泉の上にもあるのである。


/「潙山いはく、子ナンジが見処は、恁麼に長ずることを得たり」の「子は、潙山が仰山を指していると、一旦は心得られたけれども、今の「子」は仏性であり、「見処」もまた仏性である。だから、仏性の独立している姿を「恁麼に長ずる」と言うのである。


/「この因縁を挙して、潙山、仰山にとふていはく、『是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや』、仰山いはく、『然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎之機有ることを』、潙山云、『子が見処、恁麼に長ずることを得たり』」云々。「陥虎の機」とは、仰山が黄檗を讃嘆した言葉である。




〔『正法眼蔵』私訳〕

この因縁を取り上げて、潙山が仰山に問うて、「これは黄檗が、かの南泉を相手にできなかったということではないのか」と言った。(この因縁を挙して、潙山、仰山にとふていはく、「莫是黄檗搆他南泉不得麽《是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや》」。)

 

仰山は、「そうではありません。黄檗には虎を陥れる力量が有ることを、知るべきです」と言った。(仰山いはく、「不然、須知、黄檗有陥虎之機《然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎之機有ることを》」。)


潙山が、「なんじが会得した処は、このように優れているのだね」と言った。 (潙山云、「子見処、得恁麼長《子が見処、恁麼に長ずることを得たり》」。)〔このなんじは仏性である。「仏性が会得した処は、このように優れているのだね」と言うようなものである。〕


潙山は、あの時黄檗は南泉を相手にできなかったのではないかと言う。(大潙の道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得なりやといふ。)


仰山は、「黄檗は虎を陥オトシイれる力量があります」と言う。すでに虎を穴へ陥す力があるならば、また虎の頭をなでることもできよう。(仰山いはく、「黄檗は陥虎の機あり」。すでに陥虎することあらば、埒虎頭なるべし。)


                           合掌

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