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正3-12-1①『第三仏性』第十二段その1①〔趙州ジョウシュウ大師にある僧が、「犬にも仏性は有りますか、どうですか」と問うた〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 趙州 ジョウシュウ 真際大師 ダイシ にある僧とふ、「狗子還有仏性也無 クシカンウブッショウヤム 《狗子にまた仏性有りや無 イナ や》 」。 この問の意趣あきらむべし。 狗子とはいぬなり。 かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。 これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。 あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人 ショウニン をみる風流なり。 〔抄私訳〕 ・「趙州真際大師にある僧とふ、『狗子還有仏性也無 《狗子にまた仏性有りや無や》 。趙州いはく、無。』この問の意趣あきらむべし」と言う。 ・この問いの意味合いがはっきりしない。一切衆生に皆仏性が有るのに、どうして狗子(犬)の仏性の有無を、今ここで改めて問うのかと不思議に思われるが、そのわけを委しく釈されるのである。 ・結局、「鉄漢また学道するかと問取するなり」という「鉄漢」は仏性にあたり、「仏性また学道するか」という意である。仏性は仏性であるのかとも、また、鉄漢は鉄漢であるのかとも、学道は学道であるのかとも問うようなものである。 ・「あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり」と言う。この「毒手」の言葉は、狗子に対して、前世の行為の報いによって、今世で畜生の身を受けたというように聞こえる。一応は、確かにこの意味合いもあろう。 ただ、この「毒手」も落ち着くところは、仏性にあたるのである。また、「三十年よりこのかた」といっても、年数を示すようではあるが、この「三十年」は無限に遠い過去からずっとというほどの言葉であり、数に関わるものでは決してない。だから、無限に遠い過去からずっと仏性であるという意である。 「半箇の聖人」として示すのは、狗子を仏性だという言葉をしばらく「半箇」と示すのである。そうであるからには、狗子も仏性、仏性も仏性、有も仏性、無も仏性であれば、ともに仏性以外の「毒手」といっても、少しも 繋縛 ケバク の様子はないのである。                            合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブ

正3-11-7②第十一段その7②〔半分でも全部でも、指の先ほどでも全大地でも、みなこれは何ものにも依りかからない仏性なのである〕

  〔『正法眼蔵』本文〕  このゆゑに、半物 ハンモツ 全物 ゼンモツ 、これ不依倚 フエイ なり。 百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。 このゆゑにいはく、籮籠 ラロウ 一枚、時中十二。 《籮籠は一枚、時中は十二、》 依倚不依倚、如葛藤依樹 ニョカットウエジュ 。 《依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し。》 天中及全天、後頭未有語 《天中と全天と、後頭未だ語あらず》 なり。 〔聞書私訳〕 /「半物全物これ不依倚なり」と言う。上下の上で尽界を立てれば、半分は上、半分は下である。尽界の上で上下を説く時は、全が上、全てが下の義が現れるのである。 /「百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり」と言う。仏性を説くときは正に「不依倚」なのである。 /「半物全物、これ不依倚なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり」云々。これはつまり、「不依倚」の道理をあれこれと述べているのである。次に「このゆゑに」、とある。 /「籮籠一枚」とは、嫌った籮籠 (束縛するもの) を今「一枚」の「時中十二」に作るが、これはみな仏性である。 /「籮籠 ラロウ 」は竹の籠である。法にたとえれば 繋縛 ケバク の法である。籮籠は三界 サンガイ(有情が六道に生死流転する凡夫界) にもたとえられる。この三界を厭い捨てようという意味合いで籮籠という言葉がここに出たとは言わない。ただ「一切衆生は無仏性である」というほどに心得るべきである。このように心得たときは、嫌われる「籮籠」がそのまま仏性であり、解脱の「籮籠」なのである。 /「籮籠」とは 繋縛の意味合いに使う。ただ、これはそうではなく、「仏性一枚」というほどのことである。 /「葛藤が樹に倚る」とは、未だ解脱していない時を指して一般には言うのである。「樹倒れば藤枯れる」といって、樹が倒れ葛藤も枯れたのを、解脱の言葉としてただ習っている。今の「如葛藤倚樹」は、「葛藤」も「仏性」、「樹」も「仏性」であるから、未解脱の言葉ではなく、みな解脱の義である。今の「依倚」と「不依倚」ほどの言葉である。「仏性」は「仏性」に依るというほどの義である。 /「依倚」と「不依倚」とは、「依倚不依倚」の註釈では、「葛藤の樹に倚るが如し」である。「天中及び全天」の註釈では、「後頭未だ語有らず」である。 /「天中及全天」とは、前の「時中十二」の言葉で心得るべきである。「十二時中

正3-11-7-①『第三仏性』第十一段その7①〔虎を陥れ虎をなで、相対を超越している仏性〈異類〉の中を自在に行く〕

  〔『正法眼蔵』本文〕  陥虎埒虎 カンコラッコ 。、異類中行 イルイチュウギョウ 。 《虎を陥れ虎を埒 ト る、異類中に行く。》 明見仏性也 ミョウケンブッショウヤ 、開一隻眼 カイイッセキゲン 。仏性明見也 ブッショウミョウケンヤ 、失一隻眼 シツイッセキゲン 。 《仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性が明見すれば一隻眼を失す。》 速道速道 ソクドウソクドウ 。 《速 スミ やかに道 イ へ、速 スミ やかに道 イ へ。》 仏性見処 ケンジョ 、得恁麼長 トクインモチョウ 《仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり》 なり。 〔聞書私訳〕 /「陥虎埒虎 、 異類中行、明見仏性也開一隻眼、仏性明見也失一隻眼、速道 速道」云々。これは虎の頭を踏み、虎をひねり取るとも虎である。 /「虎を陥れ虎を埒 ラチ し、異類の中を行く」とは、この言葉は「唯我独尊 ユイガドクソン 」の言葉と同じである。人間界・天上界に対して「異類」なのではない。それでは相対しているようである。彼此の相対を超越しているところ である。まったく相対すべき類 タグイ がないから異類なのである。「陥虎埒虎 」 は「異類中行」である。「異類中行」とは、また世間の法とは異なるという意である。そうであるので、「仏性」である、「恁麼長」 (このように勝れている) であると言うのである。「仏性」を、「長」 (勝っている) と説くのである。「子 ナンジ の見」は「長老の見」であるとは、「明見仏性」 (仏性を明らかに見る) の「見」を指すのである。  /「長老の見」は「仏性」である、「仏性」でない「見」は「長老の見」とは言えない。「仏性」の義を見ようとしないものを、「長老」と言うことはできない。 /「明見仏性也、開一隻眼、仏性明見也、失一隻眼」とは、「烈焔亘天 レツエンコウテン」 (はげしい火焔が天にあまねし) では仏が法を説き、「亘天烈焔」 (全天がはげしい火焔) では法が仏を説くと、入り違えるほどのことである。 /「異類中行」とは、あれもこれも共に虎の中での行である。交わるものがない意味合いである。讃嘆の言葉である。この道理が、「明見仏性也、開一隻眼、仏性明見也、失一隻眼」と言われるのである。仏性の上において「開」とも「失」とも使うのである。 「一隻」と言っても寸尺のことではなく、仏性「隻」であ

正3-11-6『第三仏性』第十一段その6〔これは黄檗オウバクが、かの南泉を相手にできなかったということではないのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕  この因縁を挙 コ して、潙山 イサン 、仰山 ギョウザン にとふていはく、「莫是黄檗搆他南泉不得麽 マクゼオウバクコウタナンセンフトクマ 《是れ黄檗 オウバク 他の南泉 ナンセン を搆 コウ すること得ざるにあらずや》 」。  仰山いはく、「不然、須知、黄檗有陥虎 カンコ 之機 《然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎之機有ることを》 」。  潙山云 イハク 、「子見処 シケンジョ 、得恁麼長 トクインモチョウ 《子 ナンジ が見処、恁麼に長ずることを得たり》 」。  大潙の道 ドウ は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得 コウフトク なりやといふ。  仰山いはく、「黄檗は陥虎 カンコ の機あり」。すでに陥虎することあらば、埒虎頭 ラッコトウ なるべし。 〔聞書私訳〕 /潙山は大円禅師であり、仰山の師である。仰山は智通大師であり、潙山の弟子である。 「潙山いわく、『是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや』」とは、 /「黄檗は南泉を搆不得なりや」と言ったと思われる。例えば、黄檗は南泉の見処 (会得した処) を知っているのかというほどの意である。 /「仰山いはく、『然らず、須らく知るべし、黄檗陥虎の機有ることを』」とは、この「然らず」は、黄檗が南泉を相手にできることを「然らず」と言うのではない。もともと黄檗も片方の手を出し、一時の説法をし、南泉も片方の手を出して、一時の説法をするのである。〔両者とも同じ力量である。〕「然らず」ならば、相手にできない・相手にできるという言葉にどれ程の違いがあろうか。 /「陥虎の機」とは、仰山が黄檗を讃嘆する言葉である。 /外道が仏師にこれを問う事が有った。仏の言葉は、「然らず」と仰せられた。「搆不得」である所が「然らず」なのである。 /「潙山いはく、『子 ナンジ が見処 ケン所 は、恁麼 インモ に長ずることを得たり』」とは、師の潙山が弟子の仰山を褒める言葉である。この「子」とは仏性である。例えば、「仏性が見処は、恁麼に長ずることを得たり」というようなものである。この「長」は、潙山の上にも、黄檗の上にも、南泉の上にもあるのである。 /「潙山いはく、子 ナンジ が見処は、恁麼に長ずることを得たり」の「子 」 は、潙山が仰山を指していると、一旦は心得られたけれども、今の「子」は仏性であり、「見処」もまた