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正3-8-2①『第三仏性』第八段その2①〔衆生でないものは、有仏性ではない〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

いま国師の道取する宗旨シュウシは、「一切衆生有仏性」のみなり。


さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。


しばらく国師にとふべし、「一切諸仏有仏性也《一切諸仏、有仏性なりや也マタイナや》」。


かくのごとく問取し、試験すべきなり。


「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生有仏性」といふと参学すべし。


有仏性の有、まさに脱落すべし。


脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道チョウドウなり。



〔抄私訳〕

・又、「さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし」と言う。「有仏性」は国師の言葉であるから至極当然と言うべきである。今の、「衆生にあらざらん」とは、衆生の上の衆生ではなく、有仏性の上の有仏性ではない道理である。


「即心是仏ソクシンゼブツ(この心こそ仏である)の上の「非心非仏ヒシンヒブツ〈即心是仏の語に把われ、心仏を実体化する者が出て来たため、この執着を排しようと、非心非仏を唱えた。実際には、非心非仏と即心即仏とは内容が相違するものではなく、自己の直下に仏心を把握することを説いた語〉会不会〈理解すべき道理も無いことを不会という〉ほどのことである。


・また、「一切諸仏有仏性也無 。かくのごとく問取し、試験すべきなり」とある。これは、先師がしばらく代わって国師に問いたいというのである。


「一切衆生有仏性」はあっても、「一切諸仏有仏性」ということは、確かにありえないことである。理として具わっている仏性がついに顕れる時に、これを成仏というなら、このように仏に仏性が有ると言うことは、非常に説かれ難いことである。今、祖門の側からはとりわけ「一切諸仏有仏性」という道理があるのである。国師はこのことをも知っておられるかとしばらく応じられるのである。


・また、「『一切衆生即仏性』といはず、『一切衆生有仏性』といふと参学すべし」と言う。これは「一切衆生即仏性」という方が、一切衆生と仏性が親しく「一切衆生有仏性」と言うと、有の言葉がいささか遠ざかるように見える。しかし、この「有仏性」の「有」を脱落すると、疎遠ではない道理がはっきりするのである。


「一切衆生即仏性」は、ごく普通の表現である。特に、「一切衆生有仏性」の言葉を用いることによって、仏法の深遠なことも顕れるのである。


「一条鉄」とはくろがね(鉄)である。つまる所、外の物が交わらない意味合いであり、解脱の意味である。「鳥道」というのも、ただこの意味合いであり、跡が残こらない意である。悟跡ゴシャクの休歇キュウケツ(悟りの跡かたが止む)というほどの意味合いである。


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