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正3-8-1①後半『第三仏性』第八段その1①後半〔塩官国師は「すべての生きとし生けるものは有仏性である」と言う〕


〔聞書私訳〕

/「凡夫・外道・三乗・五乗等、おのおのなるべし」とは、三乗とは、声聞ショウモン・縁覚エンガク・菩薩ボサツである。これに人と天を加えて五乗と言う。三乗のための教えを三乗教と言う。五乗と言う時は五乗教と言わない。


ただし、天台の一つの教義として、人や天をも教えるということが、後代の学者の説に見出される。「『秘説、秘説。如増一中亦以増数明人天教』(秘義、秘義なり。増一中に、また増数をもって人天の教を明かすが如し)と説く釈の文がある」と言う。


五戒を持して人間に生まれてから、十善を行じて天に至る。《阿含を四阿含と言う。増一阿含・中阿含・長阿含・雑阿含である。》


「『増一阿含経』(1から始まって順次に数を増やし11までの法数に従って、教説が配列されている)に、人や天の因果を明かすということは、全く経文に見られない」という説が、天台の論議にある。


これに答えるのに、「誠にそうである。但し、今は、人天の習う因果を明かすのを指して、『人天の因果を明かす』とするのである」というが、はっきりとしない。


明かすとは、先に出した「如増一中・・・」の文を証拠として出し、これらを秘義と言うのである。


釈の文に、「如増一中亦以増数明人天教」と言っており、これが即ち、五戒十善より次第に三乗教を説くのが、増数(順次に数を増やすこと)の意味である。


/『涅槃経』に、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」という文が見られない。句々を考え寄せてこのように言うのである。〔誤解である。『涅槃経』南本・北本共に大正大蔵経12巻767頁上・522頁下に出る成句である。参照されたい。〕


/「三乗・五乗」はすべて分別心である。《善悪一切諸法分別心(善悪など一切のものは分別心である)というのと同じである》



〔『正法眼蔵』私訳〕

杭州コウシュウ塩官県の斉安セイアン国師(天子の師)は、馬祖バソ門下の高徳の僧である。(杭州塩官県斉安国師は、馬祖下の尊宿なり。)


あるとき大衆ダイシュに法を説いて、「一切の衆生は有の仏性である」と言った。(ちなみに衆にしめしていはく、「一切衆生有仏性」。)


この「一切の衆生」の語は、すみやかに参じ究めなければいけない。(いはゆる「一切衆生」の言、すみやかに参究すべし。) 


「一切衆生」といっても、各人が過去の業因によって受ける六道(業道)身心(依)・環境(正)は同じではなく、その考え方もいろいろである(一切衆生、その業道依正ゴウドウエショウひとつにあらず、その見まちまちなり。)


凡夫・外道(仏道以外の教え)、三乗(声聞・縁覚・菩薩)・五乗(三乗に天上界・人間界を加える)など、それぞれ違いがある。(凡夫外道、三乗五乗等、おのおのなるべし。)〔これは一般で言う説だが、仏道で言う一切衆生はこれとは違う。〕


                              合掌


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正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

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