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正3-7-3⑦『第三仏性』第七段その3⑦〔餅の画一枚で誰が今でも腹が一杯で飢えないなどと言えようか〕


〔『正法眼蔵』本文〕

しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅ガヘイ一枚を図す、用作什麼ヨウソシモ《用いて什麼ナニにかせん》


これを急著眼看キュウチャクゲンカンせん、たれか直至如今飽不飢ジキシニョコンホウフキ《直に如今に至るも飽いて飢ゑず》ならん。


月は円形なり、円は身現なり。


円を学するに、一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅に相似することなかれ。


身相円月身なり、形如満月形ギョウニョマンゲツギョウなり。


一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし。



〔抄私訳〕

・また、「しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅一枚を図す、用いて什麼ナニにかせん」と言う。


これは、龍樹の姿を描かないでは、前に述べたように、「円月相」も「満月相」も、「諸仏体」も、さらには「以表」「説法」等を描かず、役に立たない円い「画餅一枚」を描いても、何の用があろうという釈である。龍樹の坐禅の姿に、上に説く道理は、みな具わっているという意味合いである。


「これを急著眼看せん、たれか直に如今に至って飽きて飢ゑずならん」とは、このような役に立たない月輪を見て、これを信じる者を、誰がこれを十分だと言うだろうかいうのである。「直に如今に至るまで飽きて飢ゑず」とは、香厳智閑キョウゲンチカンの悟道の言葉である。


・「月は円形ギョウなり、円は身現なり」と言う。月はただ、欠けることなく完全である姿を言うのである。いわゆる、龍樹の坐禅の姿である。これを「月は円形なり」と言い、「円」はまた「身現」の姿であるから、円を学ぶのに「一枚餅の如く学することなかれ」と斥けられるのである。


・また、「身相円月身なり、形如満月相なり」とは、龍樹の坐禅の姿を指すのである。「一枚餅」「一枚銭」の「円」も、「身現円月相」の「円」に学ぶべきというのである。


〔聞書私訳〕

/「急著眼看せん、たれか直に如今イマに至るも飽きて飢ゑずならん」とは、急いで眼を著ツケけて看よと言うのではない。何に眼を著けるべきか。見るものと見られるものがない「見」が、まさに「急」である。能所(行為者・対象)を置いて見るならば、「急著眼看」のはたらきはない。上に載せた「目に未だ見ざる所」の「急著眼看」である。「除我」の道理を「急著」と使うのである。


/「直に如今に至るも飽きて飢ゑず」とは、能所が無いことが、飽きて飢えないことである。能所がまったく残らないからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるのに、龍樹の坐禅の身の現れを描かず、龍樹の坐禅の円月を描かず、龍樹の坐禅の満月の相を描かず、龍樹の坐禅の諸仏の体を描かず、仏性によって表れることを体さず、龍樹の坐禅の説法を描かず、無益に餅の画一枚を描いて、それが何の役に立つのか。(しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅ガヘイ一枚を図す、用いて什麼ナニにかせん。)


ここにしっかり眼を着けて見よ、餅の画一枚で誰が今でも腹が一杯で飢えないなどと言えようか。(これを急著眼看キュウチャクゲンカンせん、たれか直至如今飽不飢ジキシニョコンホウフキ(直に如今に至るも飽いて飢ゑず)ならん。)


月は円形であり、円は身の現れである。(月は円形なり、円は身現なり。)〔円い月はただ欠けることなく充実している坐禅の身の現れである。〕


円を学ぶのに、一枚の円い銭のようなものと学んではならないし、一枚の円い餅に似たものと思ってもならない。(円を学するに、一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅に相似することなかれ。)


身相〈坐禅している姿〉は円月身〈円い月のように完全無欠な身体〉であり、形〈坐禅している形〉は満月の形のようなものである。(身相円月身なり、形如満月形ギョウニョマンゲツギョウなり。)


一枚の銭や一枚の餅は、身現円月相の円に学ぶべきである。(一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし。)



                  合掌


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