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正3-7-3⑥『第三仏性』第七段その3⑥〔身に円月の相を現す姿を描くには、法座上に龍樹の姿を描くべきである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。


揚眉瞬目ヨウビシュンモクそれ端直タンジキなるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐ゴツザすべきなり。


破顔微笑ハガンミショウつたはるべし、作仏サブツ作祖サソするがゆえに。


この画いまだ月相ならざるには、形如ギョウニョなし、説法せず、声色なし、用弁なきなり。


もし身現をもとめば、円月相を図すべし。


円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆえに。


円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし。



〔抄私訳〕

・「しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作仏作祖するがゆえに。」と言う。

これは、「身現円月相の相」を描くときは、ただ「法座上に」龍樹を描くべきであり、これに「楊眉瞬目」も、「皮肉骨髄」「正法眼蔵」も、さらには「破顔微笑」なども、みな具わって隠れるところなく満ち足りているという言葉である。


・また、「月相ならざるには、形如なし、説法せず、声色なし、用弁なきなり」と言う。

これは、この「画餅一枚」の「円月相」を描くときは、「形如」も、「説法」も、さらには「声色」「用辯」等も具わっておらず、欠けていて役に立たないものであると斥けられるのである。


・また、「身現をもとめば、円月相を図すべし」と言う。これは子細はない、実にその趣旨がある。


・「円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆえに」と言う。

これはただ、仏性を描くなら仏性を描くべきであり、龍樹を描くなら龍樹を描くべきであるというほどの道理である。


・また、「円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし」と言う。これもまた、上の道理と同じである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知るといい、身に円月の相を現す姿を描くには、法座上に龍樹の姿を描くべきである。(しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。)


これに楊眉瞬目(眉を揚げ目をしばたかせること)も、皮肉骨髄〈仏法の真髄〉正法眼蔵〈仏法の奥義〉も、みな具わって隠れるところなく満ち足りているのである。(揚眉瞬目ヨウビシュンモクそれ端直タンジキなるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐ゴツザすべきなり。)


この時、破顔微笑(顔をほころばせて微笑すること)が伝わるのである、仏祖となるからである。(破顔微笑ハガンミショウつたはるべし、作仏サブツ作祖サソするがゆえに。)


この画にかいた餅一枚がまだ月の姿にならないときは、満月のような形も、説法も、声も色形も、弁じることなども具わっておらず、欠けていて役に立たないものである。(この画いまだ月相ならざるには、形如ギョウニョなし、説法せず、声色なし、用弁なきなり。)


もし仏性の身の現れを求めるならば、円月の姿を描くべきである。(もし身現をもとめば、円月相を図すべし。)


円月の相〈仏性〉を描くなら、筆などで描かずに正身端坐で円月の相〈仏性〉を描くべきである、正身端坐が身に仏性を現す〈身現円月相〉のであるから。(円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆえに。)


円月の相〈仏性〉を描こうとするとき、満月の相〈正身端座の姿〉を描くべきである、満月の相〈正身端座の姿〉を現すべきである。(円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし。)


                  合掌


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