〔『正法眼蔵』本文〕
「仏性非大非小ヒダイヒショウ」等の道取ドウシュ、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。
偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へる、邪念をたくはへきたるなり。
大にあらず小にあらざらん正当恁麼時ショウトウインモジの道取に罣礙ケイゲせられん道理、いま聴取するがごとく思量シリョウすべきなり。
思量なる聴取を使得シトクするがゆえに。
〔抄私訳〕
一般には、仏性は大きいものだと思っているだろうが、仏性はそういうものではない。「大に非ず小に非ざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべし」とは、「大に非ず小に非ず」という言葉を「いま聴取するがごとく思量すべし」と言うのである。「思量なる聴取を使得するがゆえに」とは、この「大に非ず小に非ざらん正当恁麼時の道取」を、「思量なる聴取を使得すべし」と言うのである。
〔聞書私訳〕
/「偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へるは、邪念を蓄へきたるなり」とは、大小を互いに比べるのではなく、そのまま仏性を説くと言うのである。
「仏性は一切の衆生に具わっている」と言うのは、衆生は小さく仏性は広大であると思っているからである。
すべて仏性でないものはないと説くときは、どんな人も大とか小とか判断することはできない。だから、仏性は広大だろうと思うのは邪念と言われ、仏性を衆生が具えているということを非難するのである。
/「大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣碍せられん」とは、仏性に妨げられるというのである。
/「いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆえに」とは、聴こえる通りに考え、考えることである聴こえることを使うことができるとは、このようであれというのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「仏性は大に非ず小に非ず」というのを、普通の凡夫や二乗の者たちと同じように理解してはならない。(「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。)
かたくなに仏性は広大なものだとだけ思っているのは、邪念を持ち続けているのである。(偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へるは、邪念を蓄へきたるなり。)
〔一般に、衆生は小さくて好ましくないもので、仏性は大きくて好ましいものだと思っているかもしれないが、仏性とはそういうものではない。〕
仏性は大でなく小でない今の様子をまさに言い表わした道理を、今聴こえる通りに受け取る〈考える〉べきである。仏性は大でなく小でないという今の様子を聴こえる通りに受け取り使用すべきである。(大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆえに)。
〔人は、自分の思いを混ぜて聴き、そこから問題が生じることがあります。今ここで、「仏性は大にあらず小にあらず」と聴く通りに聴けば、自分の思いにかき乱されることなく、その通りに受け取ることができるのです。〕
*注:〔 〕内は訳者の補足。
合掌
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