スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-7-1⑥『第三仏性』第七段その1⑥〔「仏性は大でなく小でない」と聴く通りに聴く〕


〔『正法眼蔵』本文〕

「仏性非大非小ヒダイヒショウ」等の道取ドウシュ、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。


偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へる、邪念をたくはへきたるなり。


大にあらず小にあらざらん正当恁麼時ショウトウインモジの道取に罣礙ケイゲせられん道理、いま聴取するがごとく思量シリョウすべきなり。


思量なる聴取を使得シトクするがゆえに。



〔抄私訳〕

一般には、仏性は大きいものだと思っているだろうが、仏性はそういうものではない。「大に非ず小に非ざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべし」とは、「大に非ず小に非ず」という言葉を「いま聴取するがごとく思量すべし」と言うのである。「思量なる聴取を使得するがゆえに」とは、この「大に非ず小に非ざらん正当恁麼時の道取」を、「思量なる聴取を使得すべし」と言うのである。


〔聞書私訳〕

/「偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へるは、邪念を蓄へきたるなり」とは、大小を互いに比べるのではなく、そのまま仏性を説くと言うのである。


「仏性は一切の衆生に具わっている」と言うのは、衆生は小さく仏性は広大であると思っているからである。


すべて仏性でないものはないと説くときは、どんな人も大とか小とか判断することはできない。だから、仏性は広大だろうと思うのは邪念と言われ、仏性を衆生が具えているということを非難するのである。


/「大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣碍せられん」とは、仏性に妨げられるというのである。


/「いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆえに」とは、聴こえる通りに考え、考えることである聴こえることを使うことができるとは、このようであれというのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

「仏性は大に非ず小に非ず」というのを、普通の凡夫や二乗の者たちと同じように理解してはならない。(「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。)


かたくなに仏性は広大なものだとだけ思っているのは、邪念を持ち続けているのである。(偏枯ヘンコに仏性は広大ならんとのみ思へるは、邪念を蓄へきたるなり。)

〔一般に、衆生は小さくて好ましくないもので、仏性は大きくて好ましいものだと思っているかもしれないが、仏性とはそういうものではない。〕


仏性は大でなく小でない今の様子をまさに言い表わした道理を、今聴こえる通りに受け取る〈考える〉べきである仏性は大でなく小でないという今の様子を聴こえる通りに受け取り使用すべきである。(大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆえに)


〔人は、自分の思いを混ぜて聴き、そこから問題が生じることがあります。今ここで、「仏性は大にあらず小にあらず」と聴く通りに聴けば、自分の思いにかき乱されることなく、その通りに受け取ることができるのです。〕



*注:〔 〕内は訳者の補足。


                     合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...