〔『正法眼蔵』本文〕 前後の粥飯頭 シュクハントウ みるにあやしまず、あらためなおさず。 又、画することうべからざらん法は、すべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。 しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。 おほよそ仏性は、いまの慮知念覚 リョチネンガク ならんと見解 ケンゲ することさめざるによりて、有仏性の道 ドウ にも、無仏性の道にも、通達の端 タン を失せるがごとくなり。 道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠 ソタイ は廃せるによりてなり。 諸方の粥飯頭 シュクハントウ 、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。 あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲 ウンノウ はいふべからず。 かくのごとくのやからは、真箇 シンコ 是れ畜生なり。 なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。 聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。 いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。 〔抄私訳〕 ・また、「しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり」と言う。これは、身の現れが円月の相であるのを描いたことが、まだないと言うのである。それ以下はまた文の通りである。 ・「聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず」とは、教家 (語句によって教義を説く宗派) では仏性を言うが、禅門では言ってはならないなどと言う連中があるか、ということである。 仏法は一つの法であり、教家・禅家の区別はないのである。仏が在世の時も、決して教家だ禅家だと分けられたことはない。初祖がシナに渡られて、面壁九年して坐禅されたのを壁観婆羅門 ヘキカンバラモン と名づけ、また坐禅の禅の一字を呼び出して禅宗と号した。しかし、これは人の師の言葉であり、適切でない。従って、「聴教・参禅といふこと、仏道にはなし」と斥けられるのである。 〔聞書私訳〕 /「仏道に参禅ということなし」とは、参禅学道などと常に言うこの言葉がないというのではない。「聴教」と「参禅」を、二つ立てて言うことは、「仏道にはない」と諌められるのである。近頃の禅師の多くが言うことであるが、用いてはならないのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 代々の住職はその身現円月相の画 エ を見てもおかいしいと思わず、修復しなかった