スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-7-1④『第三仏性』第七段その1④〔仏性〈向かうと必ずその通りにあること〉を見ようと思うなら、先ず我慢を除くべきである〕


〔『正法眼蔵』本文〕

「汝欲見仏性ニョヨクケンブッショウ、先須除我慢センシュジョガマン」。 


この為説イセツの宗旨シュウシ、すごさず弁肯ベンコウすべし。


見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。


我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差バンサなるべし。


しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩ガンケンモクにならふべし。



〔抄私訳〕

・「汝欲見仏性、先須除我慢。この為説の宗旨、すごさず弁肯すべし」(汝、仏性を見ようと思うなら、先ず我慢を除くべきである。この説かれた宗旨を、さし措かず納得できるまで修行すべきである)と言う。


一般にこの文を心得ると、仏性を見ようと思えば、先ず「我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心〉を除くべしとなる。慢とは煩悩であり、雲が月を覆うようなものである。この「我慢」を具えているから仏性を見ないのである。従って、この慢を除けば仏性を見ることができると思うが、これは邪見である。


仏性〈向かうと必ずその通りにあること〉の義さえ説き、仏性の道理さえ現れれば、理として「除我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心を除く〉の義は現れるのである。たとえば、諸悪を莫作マクサ(なすことなし)と説くようなものである。


・だから、「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」(見ることはないわけではない、その見ることが除我慢である)と言うのである。つまる所、「仏性」を指して「除我慢」と名付けたのである。


「汝欲仏性」 の「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」と言う。この「見」を見るものと見られるもののように心得るのは邪見である。この「見」〈見ること〉をそのまま「仏性」と心得るのである。


「我もひとつにあらず、慢も多般なり。除法また万差バンサなるべし」(我も一つでなく、慢も多様である。除く方法もまた千差万別である)とある。「先須除我慢」の「我」と「慢」と「除」、これらはみな異なるものと心得てはならず、ただ仏性の上の荘厳ショウゴン厳かに飾られた模様)である。だから「見」も「我」も「慢」も「除」も、みな「仏性」〈向かうと必ずその通りにあること〉と心得るべきである。


・だから、「これらみな見仏性なり。眼見目覩ガンケンモクトにならふべし」(これらはみな仏性を見ることである。目が見ることに学ぶべきである)と言った。眼と目はただ同じものである。眼に見えるというのも、目に覩えるというのもただ同じことである。このように、「汝欲見仏性、先須除我慢」の一つ一つの言葉、一つ一つの義が、みな仏性〈向かうと必ずその通りにあること〉であると心得るべきである。


〔聞書私訳〕

/「汝欲見仏性ニョヨクケンブッショウ、先須除我慢センシュジョガマン(汝、仏性を見んと欲はば、先ず須く我慢を除くべし) とは、この「見」は、第一段で「悉有」〈すべて〉)を「仏性」〈向かうと必ずその通りにあること〉と心得るように、「見」を「除我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心を除く〉と取るのである。「欲知仏性義」にも当たる。「見仏性」の義を言えば、「除我慢」なのである。


/つまるところ、我を除けば仏性は現れ、現れれば「見」である。仏性であるから仏体である。第五段で「仏性は成仏と同参す〈一緒にいる〉」と言うのは、この意である。


/また、この「先須除我慢」は、「目所未見・耳無所聞」(目に未だ見ざる所・耳に聞く所無し)の言葉に考え合わせるべきである。そうすれば、たやすく「我慢」は除かれるのである。


/「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」(見はないわけではないが、その見は除我慢である)と言うこの「見」は「先須除我慢」の「見」である。


/また、「見」があると言うなら、その「見」は仏性の上に置くべきである。


/「我も一つにあらず」と聞けば多いのかと思われるが、「除我慢」と続く時に、この「我」も「慢」も、実はないのである。「我も一つにあらず、慢も多般なり」と言って、「除法また万差なるべし」とあるときに、「我慢」が早く除かれてしまうから、「一つにあらず」と言っても、「多般」(多種多様)と言っても、実はないのである。


「大海は死屍シカバネを宿さず」という言葉があるが、これの理解も、死屍があるのではない。ただ大海と説く言葉には「死屍を宿さず」と必ず言うのである。このように、この「我慢」もあるのである、「先ず須く我慢を除くべし」と言うのであるから。


                      合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓


コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...