〔『正法眼蔵』本文〕
「汝欲見仏性ニョヨクケンブッショウ、先須除我慢センシュジョガマン」。
この為説イセツの宗旨シュウシ、すごさず弁肯ベンコウすべし。
見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。
我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差バンサなるべし。
しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩ガンケンモクトにならふべし。
〔抄私訳〕
・「汝欲見仏性、先須除我慢。この為説の宗旨、すごさず弁肯すべし」(汝、仏性を見ようと思うなら、先ず我慢を除くべきである。この説かれた宗旨を、さし措かず納得できるまで修行すべきである)と言う。
一般にこの文を心得ると、仏性を見ようと思えば、先ず「我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心〉を除くべしとなる。慢とは煩悩であり、雲が月を覆うようなものである。この「我慢」を具えているから仏性を見ないのである。従って、この慢を除けば仏性を見ることができると思うが、これは邪見である。
仏性〈向かうと必ずその通りにあること〉の義さえ説き、仏性の道理さえ現れれば、理として「除我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心を除く〉の義は現れるのである。たとえば、諸悪を莫作マクサ(なすことなし)と説くようなものである。
・だから、「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」(見ることはないわけではない、その見ることが除我慢である)と言うのである。つまる所、「仏性」を指して「除我慢」と名付けたのである。
「汝欲見仏性」 の「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」と言う。この「見」を見るものと見られるもののように心得るのは邪見である。この「見」〈見ること〉をそのまま「仏性」と心得るのである。
「我もひとつにあらず、慢も多般なり。除法また万差バンサなるべし」(我も一つでなく、慢も多様である。除く方法もまた千差万別である)とある。「先須除我慢」の「我」と「慢」と「除」、これらはみな異なるものと心得てはならず、ただ仏性の上の荘厳ショウゴン(厳かに飾られた模様)である。だから「見」も「我」も「慢」も「除」も、みな「仏性」〈向かうと必ずその通りにあること〉と心得るべきである。
・だから、「これらみな見仏性なり。眼見目覩ガンケンモクトにならふべし」(これらはみな仏性を見ることである。目が見ることに学ぶべきである)と言った。眼と目はただ同じものである。眼に見えるというのも、目に覩ミえるというのもただ同じことである。このように、「汝欲見仏性、先須除我慢」の一つ一つの言葉、一つ一つの義が、みな仏性〈向かうと必ずその通りにあること〉であると心得るべきである。
〔聞書私訳〕
/「汝欲見仏性ニョヨクケンブッショウ、先須除我慢センシュジョガマン」(汝、仏性を見んと欲はば、先ず須く我慢を除くべし) とは、この「見」は、第一段で「悉有」〈すべて〉)を「仏性」〈向かうと必ずその通りにあること〉と心得るように、「見」を「除我慢」〈自分を固定的な実体としての「我」と認め、その我に執着することから生じる慢心を除く〉と取るのである。「欲知仏性義」にも当たる。「見仏性」の義を言えば、「除我慢」なのである。
/つまるところ、我を除けば仏性は現れ、現れれば「見」である。仏性であるから仏体である。第五段で「仏性は成仏と同参す〈一緒にいる〉」と言うのは、この意である。
/また、この「先須除我慢」は、「目所未見・耳無所聞」(目に未だ見ざる所・耳に聞く所無し)の言葉に考え合わせるべきである。そうすれば、たやすく「我慢」は除かれるのである。
/「見はなきにあらず、その見これ除我慢なり」(見はないわけではないが、その見は除我慢である)と言うこの「見」は「先須除我慢」の「見」である。
/また、「見」があると言うなら、その「見」は仏性の上に置くべきである。
/「我も一つにあらず」と聞けば多いのかと思われるが、「除我慢」と続く時に、この「我」も「慢」も、実はないのである。「我も一つにあらず、慢も多般なり」と言って、「除法また万差なるべし」とあるときに、「我慢」が早く除かれてしまうから、「一つにあらず」と言っても、「多般」(多種多様)と言っても、実はないのである。
「大海は死屍シカバネを宿さず」という言葉があるが、これの理解も、死屍があるのではない。ただ大海と説く言葉には「死屍を宿さず」と必ず言うのである。このように、この「我慢」もあるのである、「先ず須く我慢を除くべし」と言うのであるから。
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