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正3-7-1③『第三仏性』第七段その1③〔本物の説法は決まった形は無い〕〔私訳〕

〔聞書私訳〕

/「身現円月相、以表諸仏体」(身に円月の相を現じ、以て諸仏の体を表す)とは、「身現」(身に現わす)は「除我」(我を除く)であるから、龍樹ではなく、「諸仏の体」である。仏性であるから「仏体」で表すのである。第五段の「仏性は成仏と同参」(仏性は成仏と一緒にいる)というのもこの意である。


/「無其形ムゴギョウ(決まった形は無い)とは、そのまま形あるものを「無」と用いるのである。「身現」を「尊者」にさせ、「説法」を「聴衆」に受けさせる。これは「尊者」と「聴衆」に、主客・自他の区別がないということである。「身現」と言う時は、世界は尽く「身現」であり、「説法」と言う時は、世界は皆「説法」であると言うのである。


/「用弁非声色」〈弁じることは声や形ではない〉と言うこの「非」は、世間で言う是非の非ではない。「身現円月相、以表諸仏体」(身に円月の相を現じ、以て諸仏の体を表す)がそのまま仏性であるときに、「声色ショウシキに非アラず」と言うのである。


/色身の仏(肉身を具えた仏)が声塵ショウジン(耳が捉える音声)で説法することは、もはや法身による説法とは異なるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

言い終わると、輪相はたちまち消えて、尊者はまた本の座に坐っておられ、詩偈シゲに説いて言った、(言ひ訖オワるに、輪相即ち隠る。また本坐に居して、偈を説いて言く)


「身に円月の相を現し、もって諸仏の体を表す、説法は決まった形は無く、弁じることは声や形ではない」と。(身に円月の相を現じ、以て諸仏体を表す、説法は其の形無し、用弁は声色に非ず。)


知るべきである、本物の「弁じること」は「声や形」がそのまま現れることではない。本物の「説法」は「決まった形は無い」のである。(しるべし、真箇の「用弁」は「声色」の即現にあらず、真箇の「説法」は「無其形」なり。)


尊者がそれまで広く仏性を説かれたことは、数えられないほど多いが、ここでは、ひとまずその一端を簡略に示すのである。(尊者かつてひろく仏性を為説イセツする、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙リャッコするなり。)


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